06年秋 : ソウル 〜 悲劇の民族を再び訪ねて 〜

10年ぶりのソウル。2泊3日の母と彼女の3人旅。
特にこれといった問題もおきず、特にこれといった苦労の無い旅であった。
というのも、
第一に、英語はもちろんだが、英語以上に日本語がかなり通じた。
第二に、天気がよく交通も異常にスムーズで全て計画以上に動けた。
そして第三に、なによりも、悲劇の民族は異常なまでに親切であった。

これは、ソウルの古い王宮、景福宮(キョンボックン)。ソウルで最高の見所だ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時と日韓併合時の二度により破壊され、現在復元中。
2025年ごろ復元が終了するそうだ。そのため、世界遺産には登録できなかった。解説

朝鮮半島の近代史は、日本による併合、朝鮮戦争、民族分断と、悲劇の歴史であった。
そんな悲劇の民族は、その悲劇を作った人たちの子孫である我々にも、とても親切であった。

私は10年前同様、板門店に行った。

板門店を紹介しているページ

10年前と変わったことはいろいろあった。
以前は警備兵は米軍が多かったのが、韓国軍のほうが多くなっていた。
また、以前切れていた線路が、北朝鮮までつながっていた。つまり、釜山からロンドンまで繋がったのだ。
テスト走行する予定は有ったそうだが、まだ、鉄道は走っていない。
そして、現代会長が私費を投じて板門店への橋を作っていた。
これにより板門店ツアーは以前より移動時間が短縮され、板門店内での解説がより充実した。

しかし、民族分断の悲劇は、全く軽減されていない。

今回の旅で唯一、緊張した場面があった。

停戦ライン付近に、いつもはいないはずの北朝鮮兵がいたことだ。写真奥が北朝鮮。手前が、韓国。
手前右にいるのが韓国兵で、奥の3人が北朝鮮兵だ。
北朝鮮、韓国の両兵士が出くわすことはあまり見れない。ガイドは微妙に急いで見学するように言う。

南北会議が行なわれる青い会議場に入る。そこから北朝鮮兵を見た。何か訴えるような面持ちでこちらを見ている。
写真では分かりにくいが、その表情は脳裏に焼きついてしまった。
こんなに近くにいるのに、とても遠くに感じた。ガイドは、話しかけるのはもちろん、手を振ることも、指を刺すことも、
あやるゆジェスチャーを絶対しないように言う。

彼はガイドの友達の家族かもしれないし、向かい合っている韓国兵の友達の親戚かもしれない。
同じ民族で、同じ言葉が通じる彼ら。こんなに近くにいるのに、遠く、遠く感じる。 

 

その後青い建物をでて、少し高い建物に登る。ここでガイドの説明により、北朝鮮兵がいた理由が分かる。
というのも北朝鮮からの観光客(赤い丸)が、さっきまで私がいた会議場を見学しようとしていたのだ。
ここの警備はイベントが無い限りは、観光客が来るときだけ警備する。
北からと南からの観光客が同時に来てしまったため、南北両方の警備がつくことになった。
会議場には同時に入れないため、我々より先に北から来た観光客が入っていた場合、
我々は入れなかったそうだ。

韓国から板門店に行く場合と同様、北朝鮮から板門店に行く場合も基本的に外国人しか許可されない。

(上の写真はその北からの観光客が写っている部分を拡大したもの)
私は北からの観光客を見ているうちにギョッとした。
そうだ、あの中には日本人がいるかもしれない。というより、ほぼ間違いなくいるだろう。
例えばこんなツアーに参加すれば、日本人は簡単に、北朝鮮から板門店にいける。
悲劇の民族、韓民族は南北を、自分の家族が他方にいるにもかかわらず、行き来することが
できないのに対して、日本人は自由に南北に入り、板門店にどちらからも来ることができる。

今私がいる国の敵国の客が、すぐそこにいて、そしてそれが日本人である。
私も同様に、あそこに立つことがいとも簡単にできてしまう。

私は、そして日本人は、いったい何をやっているんだろうか?
韓民族はなぜこの状態になってしまったのだろうか?
そして、
人類は、いったい何がしたいのだろうか?
なんともいえない感情が、ただただ、沸き起こってきた。

ソウルタワーからみたソウル市内。見た感じはもう、東京と比べてもそん色ない発展をしいるソウル。
どんなに豊かになっても、分断が、言われ無き憎しみあいが終わらなければ、幸せにはなれないだろう。

それは、世界中に言える事だ。
富の奪い合いによる戦争、言われ無き殺し合い、そんなものでいくら富を得ても幸せにはなれない。
それは分かっているはずなのに、今でも争いは絶えない。