97年春 : 大旅 1 - 東京 から モスクワ へ  〜 変わる人生観 〜

とはいえ、行きたい場所など思いつかなかった。40日におよぶ"大旅"にでると決心したものの、積極的に特定の場所に行きたいというものはなかった。いろんな場所に行きたい、でも、どこに行けばいいのだろう。かつては、先輩の推薦の地、レアアイテムが眠っている地という明確な目的地があった。今回、初めて自分の意思で行く場所を決めなければならなかったのだ。そこで、”決められないのなら決めずに出かけよう”ということに決めた。航空券を買おうとするから目的地を決めなければならないのだ。手ぶらで出かけよう。そして、列車と船だけで旅をしよう。行き先はおのずと、ユーラシア大陸に決まった。私はこの目的地を決めない長期の旅のときは、住んでいた寮の部屋の前に世界地図を貼って、時々、現在地を電話で寮に残っている同級生に伝えることにした。一応、万一の場合を考えて最低限、所在地を伝えておこうと思ったのだ。私は心の中では、国内旅行で終わってしまうか、行ってもソウルまでだろうと思っていた。というのも、海外で航空券を買ってすぐに乗れるものではないと思っていたし、そういうことができそうな先進国はソウル以西では、もう、ドイツまで現れないと考えていたからだ。私には春休みという時間制限があったので、そんなに遠くにはいけないと思っていた。だが、同級生には、"ロンドンまで行く"と豪語していた。実際、モスクワまで行くことになるとは・・・。

上の写真は、紛れもなく国会議事堂である。千葉県に住んでいた私は、東京観光から始めた。浅草、明治神宮、皇居、東京タワー。私が外国人なら、おそらく行くであろう場所に行った。そして、競馬にも行った。競馬に行ったのは今までで、このときだけであった。競馬だけでなく、もう8年も東京近郊に住んでいるのに、このときにしか行っていない場所はいっぱいある。地元の観光地というのは、行かないものなのだ。私は最初の一泊は野宿したが、実家に戻っている同級生の家に泊めてもらうということを思いついた。私の全く計画性のない旅は、多くの方々に迷惑をかけたが、このとき押しか先の同級生とそのお家の方には大変迷惑をかけました。大変申し訳なく思っています。ごめんなさい。

上の写真は京都の二条城前で撮った、某有名人である。お笑い番組のロケ中であった。京都を観光するのは二回目であった。私はその後、二回京都に来た。私には珍しく4回も観光した京都。私は京都が大好きだし、不思議な縁を感じる。そして、何度行っても飽きない。私は京都の本屋で海外のガイドブックを立ち読みした。そこで、モスクワでは航空券が簡単に手に入ることが分かった。しかも、モンゴル、ロシアのビザは北京にある大使館であれば簡単にとれ、ビザの収得とシベリア鉄道の切符を取り扱う、アメリカ人がやっている在北京の旅行代理店も発見した。私はこの本を買い、モスクワまで行こうと、ひそかに考え始めていた。

その後、福岡県の門司へ移動する。ここへ来たのは、下関からプサンへ行くフェリーに乗るためでもあった。私は大分出身であったため、久々の九州弁に感動していたが、近くにある実家には帰らなかった。知らない場所に行きたいんだ。そういう、強い思いがあった。ロシアで日本円が両替しづらいことが分かっていたので、銀行で米ドルを買いに行く。たまたま近くにあった銀行が大分銀行であったが、ロシアにいく旨伝えると、"ロシアは偽札が多くて、100ドル札は受け取ってくれないことが多いので、20ドル札や50ドル札にしておきます"といわれた。ロシア情勢にも詳しいとはたいしたものだなと感心したが、1000ドル両替した私は、凄まじい札束を持ち歩くことになった。そして、ロシアは偽札が多いというのを、後に実感したのであった。

下関からプサンに行く船で一泊、プサンから韓国中部の町、キョンジュへはバスで行った。プサンで、家庭的な定食屋で夜ご飯を食べたが、そこのおばちゃんが食事のマナーにやたらうるさい人で韓国の食事マナーを徹底的に仕込まれた。ハングルが分からない私には何を言っているか分からなかったが、ともかくマナーは分かった。ご飯におかずをかけて、混ぜご飯にしなければならない。その混ぜご飯はスプーンで食べなければならない。茶碗をもってはならない。・・・・日本と逆であるものばかりである。そして、このとき、韓国ではどの飲食店でもキムチが食べ放題であることに気づいた。

キョンジュで観光したあと、またバスでソウルへ向かった。ソウルではまず、中国行きの船の切符を買ったのだが、中国ビザをとるのに少し日数がかかるということであるので、ソウルには5日間ほど滞在することとなった。

上の写真は、ニュースでよく出てくる、板門店の会議場の中である。非武装地帯内は、停戦ラインが走っていて、その中心に板門店がある。板門店内のこの会議場は、北朝鮮と韓国が会談を行う場所であるが、この会議場内ではマイクのコードが停戦ラインとなっている。この会議室内のみ、北朝鮮側へまたぐことが許されており、この写真は北朝鮮側から撮っている。

上の写真は会議室から見える停戦ラインである。わずかな厚みしかない石の段差が停戦ラインである。これをまたいでしまうと、亡命ということとなる。かつて、北側からあるソ連人がここをまたぎ、韓国に亡命したらしい。そのときは、非武装地帯の外から両国の武装兵がここに集まり、銃撃戦になったそうだ。10cmもない段差であるが、私には非常に高く感じた・・・。

上の写真は”帰らずの橋"である。この橋は北朝鮮へとつながっているのであるが、万一渡ってしまうと、もちろん、帰ってくることはできないだろう。この橋は、みんな気楽に渡っていたことであろうし、そんなに長い端ではない。今は、橋の向こうが、果てしなく遠く見えてしまう・・・。

板門店には韓国人は行くことができない。外国人は特別に許可を受けたツアーで行くことができる。ガイドは非常に日本語が堪能な韓国人であったが、彼女の話を聞き、そして、実際に板門店を訪れ、民族分断の悲劇を肌で感じた。ある日突然、離れ離れになり二度と会うことができなくなった家族。戦場で敵同士として出会った兄弟・・・・。この悲劇を二度と起こしてはならない。私は後にベルリンにも行ったが、ベルリンの壁がなくなったベルリンは、経済格差など多くの問題は抱えながらも、民族分断という悲劇の面影もなく見なく、みな、幸せそうに見えた。朝鮮半島の人たちにも、早く、分断の悲劇から救われてほしい、、、こころからそう願った。冷戦が引き起こした、この分断。戦争のない、平和な世界を心から願った。そして、私は、旅の中で三度流す涙のうち、一回目をここで流してしまったのだ・・。ソウルへ行く機会がある人は、ぜひ板門店に行ってほしい。世界のみんながこの悲劇を知るべきだ。でも、韓国の人には、"板門店に行きたい"といわないほうがいいであろう・・・・。ここは観光地ではない。早くなくなるべき、忌まわしき場所なのだから・・・。

以下に板門店を詳しく紹介したページがあります。皆様ぜひ見ていただいてほしいと思います。そして、皆様ぜひ、板門店へ行き、隣の国で起きている悲劇について考えましょう。

板門店を紹介しているページ

その後、私は船で大連に渡り、大連から夜行列車で北京に向かった。大連に向かう船の中で、私は韓国人に頼まれ、貿易の手伝いをした。といえば、大げさだが、一人当たり荷物二つまではノーチェックで通れるのが、あと一人いれば、"この"輸出品が無関税でチェックされずノーチェックで通れるというのだ。私は彼らが重そうに運んでいる荷物とともにただ税関を通っただけである。その人には飯をおごってもらったりしていたので、引き受けたのだが、中身がわからないものを輸出する手助けをしてしまった。中身は何であったのかいまだに不明であるが、やばいものだったかもしれない。今後はこの手の話は引き受けないようにしようと思った。

そして、北京に着いた。まずは、モンゴルのツアーとモスクワ行きのシベリア鉄道の手配を、ある旅行代理店に頼みに行った。店員は全員アメリカ人で、日本人の客は珍しいらしい。ここで、モスクワまでの日程が完全に決定した。

上の写真は、歴史上よく出てくる天安門である。

そして、上の写真はその天安門から眺めた天安門広場である。毛沢東は、ここから人民に対して演説をしたそうだ。正面にうっすら見えるのが毛沢東記念館で、毛沢東の遺体が展示されている。私はこのとき、開園時間の関係で、見ることができなった。北京には二度と来ないと思っていただけに、非常に悔しい思いをした。まさか6年後にここに再び訪れることになるとは夢にも思っていなかった。北京はとにかく広い。ここから見える道路もいったい何車線なんだ?と思ってしまうくらい幅が広い。紫禁城や万里の長城、王府井(北京一の繁華街)、頤和園など定番どころは一通り回った。北京は本当にすばらしい観光資源をもっており、そのすばらしさは、京都に匹敵すると思った。私は、ドミトリー(多人数部屋)に泊まっていたのだが、同じ部屋に泊まっていた女性に、"明日の夜、北京ダックを食べに行きましょう"と誘われていた。かなりウキウキしていたのだが、次の日はちょっと郊外の頤和園に行く予定だったので、"5時までに帰れたら一緒に行きましょう"と返事をしたのだが、当然、5時までに帰るつもりだった。しかし、次の日、頤和園についた私は、その頤和園のあまりにも美しさに魅了され、旅先のひと時の淡い思いなどどうでもよくなった。それぐらい頤和園はすばらしかった。そして、北京ダックは食べなかった。

その次の日ぐらいであっただろうか、その日は珍しくドミトリーには私と女性一人しかおらず(15人以上収容できる部屋だった)一緒にご飯に行ったのだが、その方は異常に凄い旅人であった。旅の技術はもちろんのこと、旅の哲学を持っていた。"世界を知ることは、世界を訪問し、その土地のひとと同じ生活をする、それしかない"。そう言っていた。旅人が一つの場所に滞在できる時間は短い。でも、すこしでもその土地を理解しようと努力することが必要だ。それが、唯一、突然訪れ地元の人に迷惑をかけるだけの旅人ができる、地元の人への恩返しなのだと、考えるようになった。旅人は、"現地の人が食べているものをゲテモノだが、チャレンジして食べた"みたいなことを言うことがあるが、それは、よくない考え方だという。地元の人は紛れもなく食べているもの。彼らは特別なものを食べているのではない。我々と"違う"ものを食べているだけなのだ、それをゲテモノ扱いするのは、現地の人たちに失礼であると。現地の人が食べているものはゲテモノではない、違うだけで、彼らと同じように食べ続ければ必ずその食べ物に慣れて食べることができるようになる。そういう話を聞いた。この人は、英語が非常に堪能であったが、ネイティブと話すとき以外は英語を使わないようにしているとのことだった。そう、現地のことばを覚えようとしていたのだ。私は、この人に大きな感銘を受け、こういう旅人になりたいと思った。私がであった旅人の中で、一番すばらしい旅人であり、お手本にすべき人であった。私は、それに少しでも近づけたであろうか・・・。

このドミトリーでは毛沢東ライターがはやっていた。毛沢東の顔がついたこのライター、ふたを開けると中国国歌が流れる。これをいくらまで値切って買うことができるかというのが異常にはやったのだ。確かにこのライター、街でよく見かけたのであったがタバコをすわない私には興味がわかなかった。しかし、値切り大会に興味をもち、次の日、王府井で9元で買ってきて2位だった。このライター、後にロシアで私のピンチを救ってくれるとは、思ってもいなかった。

その後、自然博物館に行く。この自然博物館は主に子供の理科教育のために作られたという博物館らしく、一階、二階には恐竜の骨や動物の剥製など置いてあり、まぁ、普通の"自然博物館"だったし、客もほとんどが家族ずれであった。しかし、さらに階を上がると、本物の人間の遺体を使った、"人体解説"があったのだ。人間が輪切りになっておいてある。裸の女の遺体がおいてある。そして、最悪なことに、堕胎されたと思われる胎児が、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月・・・、と出産直前まで全てそろっているではないか・・・。来ていた子供たちは"ふんふんなるほどー"という感じで見ていたが、私にはもう、見ていられなかった。気持ち悪くなってしまい、その日は飯が食えなかった。私の父は医者であったが、私にはとてもできる仕事ではないと思った。このときほど父を尊敬したことはなかった。このような恐ろしいものを撮影した日本人の方のサイトを見つけたので、リンクを貼っておきます。

北京自然博物館最上階  !!!注意!!! グロテクスな画像ばかりです。苦手な方は見ないようにお願いします。また、見たことによってこうむった被害の責任は取りません。

そして、その後、私はモンゴルへと向かった。

上の写真は、ゲル(モンゴルの移動式テント)で一泊したときのものである。当時のモンゴルはツアーでしか入国できなった。私の旅行の中で唯一のツアー旅行となった。そのツアーでともに行動したのは、新婚旅行中のドイツ人夫婦、父と息子で旅行中のアメリカ人親子、一人旅中のアメリカ人女性と私であった。モンゴルまでの鉄道内では暇だったので、彼らとはいろいろな話をした。 アメリカ人女性は台湾で英語を教えているらしく、中国語が堪能だった。私はこのゲルにいるときに彼女から中国語を教えてもらっていたが、モンゴル人は不思議そうに見ていた。ドイツ人夫婦は、もう、一年近く 新婚旅行をしているらしく、もうすぐ結婚記念日がくると言っていた。凄い話だ・・・。

それにしても、モンゴルの草原には本当に何もない。360度、どこを見回しても、地平線があるのみ。モンゴルの人たちはきっと、太古の昔から地球が丸い事を知っていたに違いない。地平線は高々10kmぐらい先。彼らの遊牧の距離はそんなものではなかったのだから・・・。

街らしい街は首都のウランバートルだけであろう。上の写真は、展望台がからみたウランバートルの写真であった。首都とはいえ、田舎である。アメリカ人がモンゴル人のガイドに"モンゴルは中国とロシアのどちらに文化が近いのか?"という質問をした。"モンゴルはモンゴルだ"という返事であった。我々大国の人間から見ると、小さい国々の違いは分からないかもしれない。モンゴルは面積こそ広いが、人口は少なく、大国に与えるインパクトは少ないある意味小国かもしれない。我々大国の人間は、小国の違いが分からないゆえ、それらの国々をまとめがちだ。バルト三国、ベネルクス三国、コーカサス、などなど、、、そこに含まれる国々の違いは分からない。でも、違うのだから別々の国でありえるわけだし、現地の人たちは自分の国に誇りを持っている。私は、現地の人に、"あなたの国は、どこそこの国に似てる"などとは、言わないように決心した。それと同時に、違いを感じ取れるぐらい、現地の人とふれあいを持つことが大事であると、感じたのだ。

モンゴルは中国でも、ロシアでもない、モンゴルだ。

私はツアー客たちと飲み屋に行った。そこでたまたま、某関取の妹に会った。そのとき、彼女と会話するために使ったメモが上の写真である。彼女はかなり兄に似ており、妹であることに疑いの余地がなかった。私は相撲は結構見ていたのだが、いつもテレビで目にする彼が、こんなに日本と違う場所からはるばるやってきて、日本の国技に挑んでいると思うと、感謝したい気持ちになった。日本に来てくれてありがとう。彼は当時、小結ぐらいの番付であったが、今 も元気で幕内にいる。それがちょっぴりうれしい。

私は、その後、シベリア鉄道に乗り、モスクワへ向かった。4日間かかった。同じ部屋になったモンゴル人は貿易商を行っており、乗客や駅にいる人たちにも洋服を売っていた。私はその手伝いを行った。駅の停車時間は15分くらいはあったため、その間ホームに降りて、服を売る。私も頑張って売った。ロシア語は分からない。女性には"ジェブシカ"と声をかけろ。唯一のアドバイスだった。ロシア人女性はこの"ジェブシカ"を言わないと振り向かないことに気づいた。私は、やっとのこと一枚売った。モンゴル人にはお礼に、カップラーメンを食べさせてもらった。これは、高すぎる報酬だった。私は10単語ぐらいしか分からないモンゴル語を使って何とか日本のことを伝えた。私ができる、精一杯の恩返しであった。

モスクワに着いた。モスクワは豪雪であった。そして、異常に寒かった。もってきた服は全部着た。コートは二枚、上着は3枚、シャツは4枚、パンツは4枚、ズボンも二枚はいた。靴下も3枚重ねはきだった。それでも寒い。暖房がガンガンに効いた部屋でも、寒すぎて頭が痛くなる。寒いとはこういうことであったのか。私は日本ではどんなときでも寒いということを言えなくなってしまった。

私はまず、航空券を買いに行った。そろそろ時間切れであった。京都で調べたとおり、旅行代理店が存在し、航空券を扱っていた。そして、希望通りの日にちの航空券がいとも簡単に手に入り、情報どおりクレジットカード払いができた。なにもかも計画通りだったが一つだけ計画が狂った。"往復航空券しかありません"。かなり戸惑ったが、値段も片道とそんなに変わらなかったし、帰りの航空券は捨てればいいか、と気楽に考え、承諾した。ここで私は"モスクワ発東京行き往復航空券"を手に入れたのだ。 私のこの"行きの切符"で東京へ"行き"、モスクワへの"帰り"の切符は使わないつもりだったのだが。

私が北京で申し込んだツアーはモスクワでホテル一泊して終わりであった。二泊目以降は自分で探そうと思っていた。しかし、どこの宿もなぜか断られた。理由を教えてくれようともしない。私は困り果てた。日もすっかり暮れていた。外は豪雪。そんな困り果てた私をみて、助けてくれたロシア人がいた。彼は英語がしゃべれたわけではないが、何とか、宿が断る理由を説明した。ここで初めてビザに問題があることに気がついたのであった。そのビザが上の写真である。このビザ、実は、ロシアを通過するためのビザで、一つの街で二泊以上してはならないというものであった。しかも、次の目的地はワルシャワであるとはっきり書いてあった。そう、私はしらないうちに不法滞在をやってしまったのだ。私は思いのほか冷静であった。

"これはどう考えても俺のせいじゃない。日本大使館に駆け込めば必ずこちらに落ち度がないと理解してくれて、助けてくれる 。なんとかなる。"、

そう思った。絶対に、何事もなく帰国するのだと、強く決意したのだ。私はこのロシア人が、"それでもとめてくれる宿があるからついてこい"といってることまでは分かったのだが、彼がしきりに言う、"チナ"の意味が分からなかった。その宿は"チナ"らしいのだが、全く意味が分からない。

そして、彼につれられてその宿に着いた。中国人宿であった。私と同じように不法滞在のものもいるのだろうか・・・。彼の言う"チナ"意味がはじめて分かった。そう、"China"のことだったのだ。彼は私が中国人であると思っていたらしく、中国人と言葉が通じないのに気づいて驚いていた。中国人たちは何か話し合っていた。おそらく、不法滞在の中国人をかくまったりしているのだろう。このロシア人はそれを知っていて、中国人と思っていた私をここへ連れてきて、かくまってもらおうと思ったのだろう。彼らは明らかに渋っていた。日本人をかくまう必要などどこにあるのだろう、って雰囲気が漂っていた。私は、ここに泊まれなかったらもう日本大使館行きになると感じた。大使館は夜開いているだろうか・・・、開いてなかったら、野宿?。凍死が頭によぎった。警察に行けば逮捕されるかもしれない。私は、何とかしてここにとめてもらわなければならない。必死になった。英語は通じる相手であったが、ありったけの中国語を使った。"私は北京に行った。中国はすばらしいところだ。"私は必死だった。そして、私は、偶然持っていた、例のものを取り出した。

毛沢東ライターだ。ふたを開けると中国国歌が流れ出した。雰囲気ががらりと変わった。"何日とまりたいんだ?うちはちょっと高いぞ。"ほっとした。彼らは親身になって、相談に乗ってくれた。"ロシアの警察はよくない。見つかったら多額の賄賂を要求されるから注意しろ。警察は常に敵と思え。"これは、ロシアに限らず、旧ソビエトの国々は全てそうだった。私は旧ソビエトの国にあと三つ行く運命にあった。そのうち二つでひどい目にあうことになる。"警察は敵。"信じられない常識であった。私はもう、航空券を買ってしまっている。出発の日まで、観光してやる!そう決心したのだ。

私が寝ようとしたころ、宿の人がきた。"ここは危ない、別の場所に移ろう。"私は車に乗せられた。どこへ向かっているのかさっぱり分からない。私は信じるしかなかった。そして、別の宿に着いた。部屋に案内され、紙を渡された。"これが俺の住所と電話番号だ、困ったことがあったら連絡してくれ。"そう言われた。感動した。なんてお礼を言えばいいか分からなかった。"お前とは友達だからな。"そう言われた。そう、これは私が中国のことを理解しようとしていたことへの感謝なのかもしれない。あまりにも多すぎる"謝々"であった。

次の朝、私はどこにいるのか分からなかった。いろんな人に聞きながら、何とか最寄の地下鉄駅にたどり着いた。そして、やっと場所を把握できた。そして、警察となるべく顔を合わせないように観光を始めた。

上の二枚の写真は、共産圏でもっとも重要拠点である、赤の広場である。私は教会に行き、デパートでアイスクリームを食べた。寒さを防ぐため、ロシア人がよくかぶっている帽子を買った。耳が千切れそうになっていたが、それを何とか防いだ。私は警察に詰問されないように注意を払ったが、なかなか、外国人だとばれないようで、あまり怪しまれなかった。しかし、ついに詰問されてしまった。"そうか〜、ワルシャワに行くんだね。そこからどうするんだ?"どうも、ビザが違法であることは、パット見分からないようで、かなりの知識がないと違法だと気づかないようであった。私は、ワルシャワからベルリンに行き、ベルリンから日本に帰るとうそをついた。その後、何度か詰問されたが、問題なかった。

そして、もう一つの難関が訪れた。米ドルが尽きたのだ。所持金は日本円の一万円札二枚のみ。これを両替できなければ、帰れないかもしれない。日本円が両替できる場所はなかなか見つからなかったが、超高級ホテルで粗悪なレートで両替できることが分かった。もう、レートのことは言ってられない。とにかく、両替しなければ。私はそのホテルで、一万円を差し出して、両替してくれと頼んだ。すると係りの人は、異常なまでにその一万円札を調べる。20ドル札を両替したときはほとんど疑われなかったが、一万円札は高額紙幣。ブラックライトを当てたり、さまざまな装置を使って調べられた。そして、こともあろうことに"これは 偽札だ"と言われた。そんなばかな。"そんなはずはない"私はそういうと、このお札が何故偽札なのかを説明し始めた。彼女は"お金辞典"をとりだし、"ナンバーの色が違う"というのだ。確かにお金辞典に載っている一万円札のナンバーの色とこの一万円札のそれとは違った。お金辞典が間違っているに違いない。私は持っていたもう一枚の一万円札を見た。ナンバーの色が、一枚目と異っていた。そう、お金辞典と同じ色だった。彼女は言う、"こっちは本物だよ。両替しましょう。"・・・・。ともかく助かった。

私はもっとも警備が厳しいレーニン記念館に行くことにした。かなりいろいろ調べられたが、ビザの件は大丈夫だった。そして、レーニンとの対面。その地下の暗室には、私は見張り兵一人と、そして、レーニンの遺体だけがあった。薄暗い部屋で、レーニンの遺体がほのかにライトアップされている。恐ろしい部屋だった。

そして、帰国の日がやってきた。ここが最大の難関であった。この違法ビザで出国できるのであろうか。出国管理官はおばちゃんだった。その管理官は、出国資格があるのかどうか判断がつかず上司を呼んできた。その上司もおばちゃんだった。上司も分からなかったみたいで、さらに上の人を呼んできた。その人もおばちゃんだった。三人のおばちゃんは、かなり議論していた。ビザの専門家であるはずの出入国管理官ですら分からないようなルールを作るんじゃないよ、と思った。これがロシアなのか・・・。私は彼女たちに声をかけた。"ジェブシカ"。この今だ意味の分からない単語を発したとき、すんなり出国が許された。不思議でたまらなかったが、ホッとした。無事に帰れる。胸をなでおろした。

成田に着いたとき、私は、まだ小さい難関があることに気づいた。お金がないのだ。そう、偽札かもしれない一万円札以外は、ほんのわずかな小銭以外、お金がなかったのだ。家に帰る方法を考えた。電話は話せても数分、向かいに来てくれるところまでこぎつけるどうか。警察に行けば、このお札のことを聞かれるかもしれない。どうすればいい・・・。懸命に財布をあさっていると"イオカード"(電車のプリペイドカード)が出てきた。私は無事電車に乗り、寮へたどり着いた。

寮の周りには桜が咲いていた。私はその桜を見たとき、二度目の涙を流した。帰ってこれたのだと、実感がわいてきた。そして、日本はなんてすばらしいのだろうと思った。平和な国。警察が味方な国。寒くも暑くもない国。特定の思想を押し付けられたりしない国。そして、民族が分断されていない国・・・。私は日本人で本当によかったと感じた。外国を知ることは日本を知ることでもある。私は日本のすばらしさをはじめて知った。

私はこの旅では、共産圏ばかり行った。韓国以外は共産圏だった。共産圏の人たちとともに語り、食事をし、助けてもらい、、、多くの場面で助けてもらったし、私は感謝の気持ちでいっぱいであった。であった人はみんないい人だった。私の人生観は明らかに変わりつつあった。共産主義はうまくいっているとはいえないかもしれない。そこに住んでいる人たちは、共産主義を選んでそこに生まれたわけではない。共産主義でなければなぁ〜、っと思っている人も多いかもしれない。日本人を妬ましく思っているかもしれない。それでも、みんな、私のことを助けてくれた。政体が違っても、人間は、そんなに変わるものじゃない。そう思った。そして、どんな宗教にも縛られず、どんな思想にも縛られず、自由に考え発言でき、そして、世界の全ての国に行くことが許された唯一の国民、日本人として生まれたことは非常に幸せであるし、それゆえ、世界のことを考え、世界の人たちと対話し、世界の人たちと仲良くなる義務が、我々にはあると感じた。我々には過去からの忌まわしき宗教対立や、民族紛争とは ほぼ無縁である。世界の人たちが仲良くなるための架け橋に一番なりやすいのが日本人のはずだ。どんな場所の人とも、同じものを食べ、一緒に歩き、語り合えば、必ず、分かり合える。それを実践すれば、もっと平和な世の中になるはずだと思う。かつて冷戦時代のアメリカの大統領に言いたい。あなたは、モスクワの人たちと同じものを食べ、同じバスに乗り、同じウォッカを飲みましたか?ソビエトの書記長に言いたい。ニューヨークの人たちと同じものを食べ、同じバスに乗り、同じ音楽を聴きましたか?そうしていれば、きっと、こんなに悪い結果にはなっていかったと思います。

私の同級生にロシア語を第二外国語で選択している人がいたので、"ジェブシカ"の意味を聞いてみた。その意味は"お嬢さん"だそうだ。なるほど、女性にとって最重要単語であることを納得した。

偽札の件も、同級生に聞いてみた。"一万円札はナンバーの色が二種類あるんだよ"。あのお金辞典にはその片方しかのってなかったわけか・・。私は疑いの晴れた一万円札を小さな定食屋で使った。

そして手元には、モスクワへの"帰り"のチケットが残っていた。