04年早春 : エルサレム 〜 行き残した場所 〜

初めは怖かった。日本で手に入る、イスラエルの情報は、イスラエルが危険であることを示していた。しかし、私は自分自身にGoサインを出した、なぜなら、

1) 私の目的地はエルサレム。エルサレム市民が疎開しているという話は聞いたことがない。
2) テロの標的は外国人ではない。つまり、危険度は現地の人と同じ。
 → 疎開を検討するほど危険ではない。 → 訪問しない理由はない。

と、考えたからだ。過去のテロ情報は外務省のページにのっているものはすべて見た。路線バスや宗教行事など、人ごみを避ければ、大丈夫だろう、という結論に至った。ここまですれば、東京で交通事故にあう危険のほうが高いだろう、と思った。

今回は日程にかなり制限があったため、航空券をとるのに苦労した。結局、行きはローマ経由、帰りはミラノ経由という変則的なものになった。3泊7日の旅となり、飛行機泊や空港泊のほうが多い。

エルサレムは行き残した場所であった。地球が丸く見えてきた私にとって、ぼんやりとも想像できない場所はエルサレムとインドしかなかった。私は世界を旅してきて"なぜ戦争が起こるのだろう"と思うことがしばしばあった。エルサレムから帰ってきた大学の後輩が、ぽつりと言った言葉がある。

”なぜエルサレムでは戦争が起こらないんだろう”、

っと。私はその言葉が気になっていた。エルサレムは世界の紛争の元凶となっている場所。争いの根源を見に行きたかった。

ローマとミラノの乗り継ぎ時間が7時間半と、6時間とあまりにも長かったので、イタリアに入国していいかと、成田空港で聞いてみると、可能だという。私は、非常に短時間であるが、イタリア観光もできることとなった。ガイドブックは持ってきていないけど、大丈夫だろう。

自己最高の12時間のフライト後、ローマについた。飛行機の中で、隣にいた日本人にガイドブックを見せてもらっており、必要な情報はまとめていたのと、ローマは以前来たこともあり、7時間半で十分観光できた。

その後、イスラエルの最大の都市、テルアビブ行きの飛行機に乗った。空港についた後、飛行機から降りるタラップを下り終わったところに係員がいて、"尋問"された。”何しに来たのか”、”どこに行くのか”、”どこに滞在するのか”、”イスラエルに友達はいるか”など。出入国管理 官やその後、出国直後など、同じような質問を4人ほどにされたが、15分くらいで開放され、無事イスラエルに入国した。そして、乗り合いタクシーでエルサレムへ向かった。

早朝にエルサレムに着いた私は予約していた宿に荷物を置き、朝のエルサレム旧市街を歩いていた。ムスリム地区(イスラム系の人、この辺では特にパレスチナ人が住む地区)を歩いているとき、遠くでサイレンがやたら鳴っているのが聞こえた。街頭のテレビに人だかりができていたので、近くの人に聞いてみると、”ここから800mくらいのところでテロがあった”ということだった。しかし、彼は続けて言う、”それより、どこから来たの?中国?日本?、絵ハガキかってよ。”と、パレスチナ人。彼らにとって、テロは、我々の交通事故のような感覚なのであろう。我々は東京に住んでいて、”死亡事故発生現場”という看板を見ても、そんなに怖がることはない。そんなものなのだ。私は、身の回りにない異質なリスクに対して、過剰におびえていただけだったのだ、と私は思った。これ以後、私はエルサレムが危険だという意識は全く持たなくなったし、むしろ、何であんなに怖がっていたのだろうと疑問に思うようになったほどだ。

上の写真は、旧市街内の道。狭い道が非常に入り組んでいる。

ここでエルサレムの旧市街の基本的なデータを示しておられるページを紹介しておきます。
2000年12月21日(木)松戸オリエント協会セミナー公演資料。

上の写真は旧市街の町並み。イスラム教の第三の聖地、岩のドームと、その手前にあるユダヤ教の聖地、嘆きの壁が見える。エルサレムは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地が重なり合った場所である。この街では、アザラーン(イスラム教においた、お祈りをするように呼びかける町内放送みたいなもの)が聞こえてくると、その後、教会の鐘が鳴ったりと、不思議な感覚に見舞われる。

上の写真は、岩のドームである。ここにかつて、ユダヤ教の神殿があり、ユダヤ教徒には”神殿の丘”と呼ばれている。この狭い一箇所をめぐって、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、まだ宗教を持たなかった王国も含めれば、3000年もの間、争ってきた。日本人には、ただの広場としか感じられない場所をめぐって多くの人が血を流したのだ。

そしてこれが、嘆きの壁である(上の写真)。ユダヤ教の神殿は破壊されたが、この外壁だけが残った。私にはただの壁にしか見えないが、ユダヤ人はみな、真剣にお祈りしている。

そして、上の写真がキリストの墓である。キリスト教の聖地であるが、神殿の丘&岩のドームから数百メートル離れている。そのため、キリスト教徒にとっては、エルサレム問題は、イスラム教とユダヤ教ほどには深刻ではない のかもしれない。それに、ここの統治権についてはそれほどこだわりがないようだ。実際ここの建物の鍵はパレスチナ人が管理しているが、大きな問題は起きず、うまくやっているようだった。

ムハンマドが天に昇った場所である、イスラムの聖地、岩のドーム。ユダヤの二代目の王、ソロモンが築いた神聖な神殿があった場所。その名残を唯一残す、嘆きの壁。ユダヤの初代王、ダビデの墓。そこの二階にはキリストが最後の晩餐を行った部屋があるが、その部屋は、モスク(イスラム寺院)としての名残も残している。マリアの墓、マリアが生まれた場所、キリストが天に昇った場所、そのときの足跡、キリストが判決を受けた場所、キリストが十字架を背負って歩いた道、地下に作られた総本山的なシナゴーグ(ユダヤ教の寺院)。ムハンマドが天に昇ったときにつけた足跡。 三つの宗教に共通する、救世主が通るとされる門、黄金門。

こんなものが、たかだか1キロ平米の旧市街にひしめき合っていた。

旧市街にはパレスチナ人(イスラム教)地区、ユダヤ人地区、キリスト教地区、アルメニア教(キリスト教の一派)地区の四つに分かれているが、キリスト教とアルメニア教地区は閑散とした住宅街で、人口も少ないのかもしれないが、静かであまり人に会わなかった。パレスチナ人とユダヤ人は、店も多く出していて、人も多く活気があった。旧市街は、パレスチナ人とユダヤ人でほぼ二分しているというのが、私の印象だった。

私ははじめ、適当に歩いていた。すると、しらずしらずの間に、パレスチナ人地区に足が向いていた。私はイスラム教の国には、バーレーン、トルコ、イランと、行っていて親しみがあったから、パレスチナ人地区に親しみを覚え、ユダヤ人は、あの黒ずくめの服装の人も少なくなく、正直少し怖いところがあった。でも、私はユダヤ人とも交流したかった。三日目は、ユダヤ人地区で多くすごすよう、努力した。ユダヤ人の子供に囲まれて人気者になったり、ユダヤ人のおしゃれな喫茶店に出入りする、警察や軍人が笑いながら語り合っているのをみて、そして、みやげ物屋や喫茶店の店員、通行人との駄弁りを通じて、親しみを持てるようになった。

たった、一ヶ月しかいなかったイスラム圏の経験が、パレスチナ人地区に足を向かわせた。ましてや、生まれたときからイスラム教だったり、ユダヤ教だったりした人が、他方の人と仲良くなるのには、相当大きな文化や習慣の壁があるのであろう。それでも、ここの人たちは、毎日顔を合わせる、"他方の人"と、一定の距離、一定の緊張感を持ちつつも、なんとかうまくやっている。かの後輩の質問、"なぜ戦争が起きないのか?"。その私なりの答えは、お互い顔の見える、表情が見える存在であるからであろう、というものだ。あんなに近くにいるからこそ、戦争が起きないのかもしれない。

三日間、エルサレムを観光した後、最終日には死海に行った。保養地として整備された場所があり、プールや温泉もついていた。死海は塩分濃度が高くて、体が勝手に浮く。泳いだりとてもできない。足が勝手に浮いて、おぼれそうになる。塩水なので、目に入ると超痛かった。

この保養地に行くバスを待っているとき、一人の敬虔なユダヤ人老人と少し話した。私はもう、黒ずくめの格好に抵抗は無く、親しみさえ覚えていた。"日本人はどんな「GOD」を信じているのか?"ときかれ、"多くの人が「GOD」を持っていない"と、答えた。その返事に彼は印象的な返事を返した。

"日本にはGODはいなくても、平和なんだね。エルサレムには3つのGODがいるけど、平和にならない。なんでもいい、平和になってほしい。"

彼は、"私は出発の時間が来た。私は毎朝ここでバスを待っている。またここに来てください、一年後でも十年後でも。また会いましょう。"っと付け加えた。エルサレムの最後を締めくくるに、すばらしい言葉をいただいたと思った。

死海を満喫した後、大都市テルアビブですこしブラブラし、空港へ向かった。午前3時。飛行機のチェックイン前に行わなければならないセキュリティーチェックを受け始めた。徹夜での出国手続きである。まず、"尋問"である。"イスラエルには何しに来たのか"、"エルサレムでは何を見たのか?"、"教会とは何教会か?"、"その教会では何が起きたのか?"、"死海では何をしたのか?"、"死海に行ったときいくらかかったか?"、このあたりからおかしなことになってくる。私は緊張してき始めた。"その金額は安すぎる。おかしい。"、"死海に行ったときの切符を見せてください。"、"何故持っていない。どこの旅行代理店をつかったのか?"、私はツーリストインフォメーションの紹介でのったバスなので、代理店については本当に知らなかった。"何故知らない?"。私はかなり焦り始めた。"尋問"は思わぬ方向に進む。

係"今のイスラエルは寒いのになんでこんなに荷物が少ないのだ?"
私"もっと服を持ってくるべきでした。寒かったです。"
係"本当にイスラエルに知人はいないのか?この荷物で四日間過ごせたとは思えない。"
私"寒かったのですが我慢しました。"

私はうそはついていない。しかし、どう考えても怪しい問答だ。自分でもそう思った。しかし、ここで、意外にも尋問をしていた係りから笑顔がこぼれた。

係"この四日間なにをやったか、もう一度思い出して。がんばって思い出して!"

彼女はおそらく、私がテロリストでないことを早い段階で分かっていたようだ。ただ、客観的にその基準がマニュアル化されていて、私が客観的に怪しい答えしか出せないから、"がんばって"と応援してくれたのだろう、と私は思った。緊張がほぐれた。この後、この旅でやってきたことをスラスラと言えた。その後、尋問のスーパーバイザを加えて二対一の尋問になったが、"ローマでは何をしたのか?"の質問を最後に、開放された。この尋問は30分はかかった。個人旅行者は、厳しく調べられると聞いて用意はしていたのだが、苦戦してしまった。

あとは、荷物検査を1時間、身体検査を個室で15分くらいと、個人旅行者にとってはイスラエルでは普通のチェックを受け、晴れて出国した。使い捨てカメラの内部をX線で走査されたため、三分の一ぐらいの写真が、X線にやられてしまった。

その後、ミラノで観光する。6時間のトランジットであったため、街中に入れたのは一時間半程度であった。私は空港で地図をもらって、適当に観光したのだが、予想以上に見所満載で、もっと居たかった。一泊ぐらいしていけばよかったなぁ〜っと思う。特に、せっかく本物の最後の晩餐の部屋を見たんだから、ダビンチの最後の晩餐の壁画を見るべきだったと思う。

そして、私は帰国した。

私は今までの旅で買ってきたものを集めてみた(上の写真)。キリスト教の天使、ユダヤ教の聖書、イスラム教のコーラン。この三つを同時に所有しえるのも、GODを信じない日本人のなせる業か。

ともかく、みんなもっと仲良くなってほしい。いがみあいをなくしてほしい。ただ私には、どうすればよいか、旅をすればするほど、分からなくなった。

最後にX線でやられた上の写真をおいておきます。後ろに写っているのは、ユダヤ教のシンボルであるメノラー(燭台)であり、このメノラーはかなり大きめで特別なものらしい。このメノラーはガイドブックになど載っていない。ただ、出発前に見たあるテレビ番組で、平和を望むユダヤ人が証言している。

"右派のなかには、岩のドームを破壊し、神殿の丘に新しいユダヤ教の神殿を立て、このメノラーをそこに置く計画をもっている人たちがいる。そんなことになったら、このエルサレムは大変なことになる。"

私はそうは思わない。このメノラーが神殿の丘に置かれたとき、世界を巻き込んだ大戦となると思う。いや、世界は終わるかもしれないといっても、あながち大げさとはいえないかもしれない。テレビゲームのなかでしか起きないと思っていたことが、本当に起こってしまうかもしれません。そう、

このメノラーが神殿の丘に置かれたとき、世界はかつて無いほどの恐怖に包まれるでしょう。