98年夏 : 大旅 3 - イスタンブール から イスファハン  〜 旅か?修行か? 〜

アフガニスタンを目指すことにした。正直迷った。イスタンブールから東に行けば、イラン、アフガニスタンがある。南にいけば、レバノン、シリア、イスラエル、エジプト。特に、私の心を惹いたのは、アフガニスタンとイスラエルである。

私は、今回の旅では、アフガニスタンを目指すことを決断した。当時のアフガニスタンは国際社会から忘れられた国。だれも注目していなった。タリバンの全盛期であった。タリバンはもとは学生の集団であり、原理主義者であった。私は彼らにあってみたくなっていた。当時、"比較的"治安は安定しており、パキスタンから陸路で入れるという情報があった。イスラエルは、働き出してからでも、空路でいつでもいけると思った。なにせ先進国であるし。でも、イラン、アフガニスタンという魅力的な超イスラミック国家は、かなり、時間がかかる。今回は、時間がかかるほうに行っておこうと。

まず、予約が取れなかった。電話先の係りの人は、"どうしても予約がとれません"という。イスタンブールへ"帰る"航空券。東京→香港→バーレーン→イスタンブールである。何故かバーレーンからイスタンブールの便が予約が取れない。もう一つ問題があった。フライトスケジュールの変更の関係で、バーレーンで3、4日滞在しなければならなくなったのだ。そのため、バーレーンビザを空港で収得して滞在することになるが、そのビザの延長は不可能。つまり、バーレーンでキャンセル待ちをして取れなかった場合、不法滞在を回避できなくなる可能性がある。しかし、私の経験からすれば、キャンセル待ちはほぼ100%席が取れる。私はキャンセル待ちをいれて、ともかく、バーレーンまで向かうことにした。バーレーンに着くまでには予約できてるだろうと。

上の写真は、予約の件などさほど大きな問題にならないだろうと思っていたころ、東京の浅草に行ったときのものである。このときの私は、この後に起こる、厳しい試練を何も知らない。ましてや、体重47kg、ウエスト60cmになって帰国してくるとは思ってもいなかったのだ。

この旅では、試練はほぼ毎日起こる。

旅の初日、香港について、宿のドミトリーで眠っていた。夜中、ライフル銃を携帯した"武装集団"が、我々の部屋のドアを蹴り開けた。今回の旅は初日にして終わったと思った。"パスポートを見せろ"という。私服警官が不法滞在者を取り締まってたそうな・・・。ビビらせんでくれ。

次の日。"この航空券ではバーレーンでストップオーバーできません"という。空港で4日間まてとでも言うのか?その日のうちに乗り継ぐのは不可能なのに、ストップオーバーできないとは何事なんだ・・・。私は英語が分からない"フリ"をした。そう、この"英語が分からないフリ"。場面によってはかなり強力な武器である。一向にあきらめようとしない、英語が通じ得ない私に対し、"しょうがない、なんとかするか"という気になった係員。私は飛行機の搭乗口の目の前で待たされた。離陸予定時間の5分くらい前だっただろうか?空港の放送で呼び出される。しかし、私は呼び出し先である、搭乗口前にすでにいる。向こうから、例の係員が走ってくる。"これでバーレーンに入国できる、とにかく乗れ"。私が走り乗った瞬間、飛行機のドアがしまった。また、やってしまった。そして、どういう処理をしたかわからないが、航空券がやたら分厚くなっていた。

夜中にバーレーンに着く。ビザは難なく取れた。五日間とうわさされたビザは二週間になっておりちょっと一安心。夜中の12時に着陸。機長は"現地の気温は38度"という。私は英語の聞き取り間違えと思ったが、空港から出てみると、本当に暑かった。夜中でこの暑さ、昼間を想像するだけで恐ろしい・・・。

上の写真はバーレーンの街中の様子である。完全なイスラムの国であるが、西欧風のところもある。まぁ、サウジアラビアとバーレーンの関係は、中国と香港の関係に似ていると思う。バーレーン→イスタンブールの航空券の予約が取れているかどうか、航空会社に確認しに行ったが、係員はいう、"早めに空港に行ったら。たぶん乗れます"。予約をとってくれと言ったのだが、何故か取り合ってくれない。非常に不安になってきた。二週間以上待ったキャンセル待ちでも取れない予約。当日、ひょっこりのれるとは思えない。私は他の出国方法を模索し始めた。そう、私は二週間以内に出国しなければならないのだ。

空路に関してはどの便も予約が取れなかった。いったい何が起こっているのだ?予約は全てノー。意味不明だった。陸路では、サウジアラビアのみにいける。しかし、二週間以内にサウジアラビアビザを取るのは困難であった。残るは、海路。現実的な海路は、イラン行きの船しかない。私はイランビザをとることにした。

私はイラン大使館に行ったのであるが、ビザは出せないという。終わった。完全に終わった。私は、もう、この国から出られないかもしれない。私は最終手段に出た。日本大使館に行った。日本大使館は休日でしまっていた。その旨、ガードマンに言われたが、ここでも英語が分からないフリをして、休日出勤していた大使館員に電話で話をしてもらえることになった。(もちろん、ガードマンは通訳してくれという意味の電話だったのであるが)。私は、イランビザについて聞くと、中へ通してくれた。

大使館員がイラン大使館へ交渉してくれたのであるが、日本大使館員が保証人になっても発給までには、二週間以上かかるといわれてしまった。イラン行きは無理となった。大使館員の表情も険しい。私は、強制送還されてしまうのであろうか・・・。

大使館員は、この、絶対に予約が取れない航空券についても調べてくれた。すると、答えは簡単だった。"これは、予約をとることのできない航空券だそうです"。は?そんなものがあるのか?東京の航空会社のオフィスの人は、私と同じように、このルールをしらずに予約を取ろうとして、"ノー"を言われ続けたのだ。彼らは何故"ノー"なのか説明しない。端末に"ノー"と出ている、としか言わないのだ。私が乗ろうとしている便は、ほとんどの人が、予約のできない航空券で乗ってくることもこのとき分かった。そう、私は空港に早めに行けば、乗れるという意味がやっと分かったのだ。

私は、晴れて観光を始めることができた。博物館で、再びお世話になった大使館員に偶然会う。彼女は、何故か、日本人のおばさんたちをガイドしていた。私は、仲間に入れてもらうことにした。おばさんたちは、彼女の同僚の母親などであった。(詳しい関係は忘れました)。最近、同僚に子供ができたそうで、その生まれたばかりの子供を見に来たのだそうだ。日本からはるばる良く来たものだ。大使館員は仕事に戻るため、途中で帰っていったが、おばさんたちと私は博物館の中をまわった。博物館を一通り回った後、おばさんたちが、"夕飯を食べにおいでよ"という。お言葉に甘えて、子供が生まれたばかりだという、世話になった大使館員の同僚である、大使館員の家でご馳走になることになった。

大使館員とおばさんたちは、バーレーンに来る、日本人の旅人が相当珍しかったらしい。大使館員はかなりうれしそうだった。バーレーンには日本人が数十人しか住んでいないのだそうだ。私は、ここまでの旅の話、旅の中で考えたことを話した。ほぼずっと海外に住んでいる大使館員でさえ、珍しい話を聞けたという感じの反応だった。生まれたばかりの赤ちゃんはよく泣いていた。奥さんは、昔旅人だったようで、奥さんも私の話に興味深深だった。

大使館員に"イスタンブールから先はどうするのですか?"と聞かれた。私は、"イラン、パキスタン、アフガニスタンへと行きます。"と答える。"アフガニスタンは行かないでくれ"という。アフガニスタンは外務省渡航情報で危険度最大の5(現在の4相当)。外務省の人なら、必ず、行くなというであろう。私は反論した、"外務省はアフガニスタンの正しい情報を仕入れることができていない。89年以来、一人でも、見に行ったのです?アフガニスタンを"と。大使館員は"情報がないのは確かにそうです。アフガニスタンが安全か危険かどうかすら分からないので、危険だという情報を出し続けています。渡航中止を強制することも我々はできません。気をつけて行ってきてください。"そう言われた。"はい"と答えた。

大使館員は私を宿まで車で送ってくれた。そして、名刺をもらった。困ったらいつでも連絡くださいっと。そう、私は万一、バーレーンから出国できなかったら、お世話になるかも知れなかった。

次の日、観光していると、道に迷った。午後2時のこと。推定の気温は55度くらいだったようだ。(バーレーンの気象庁が使っている温度計は49度までしか測れないらしく、最高気温の記録は不可能らしい。そとは、誰も歩いていない。道を聞こうにも聞く相手がいない。車も走っていない。ヒッチハイクもできない。日陰もない。ただひたすら陽を浴びた。死ぬかと思った。いや、少なくとも、ぶっ倒れてもおかしくない状態だった。私はゆっくり歩いた。なんというのだろう、空気の存在がはっきりと実感できるほど暑かった。暑いというのはこういうことを言うのか。私は日本では、もう、暑いなどということはいえないと思った。遠くに人影が見えた。日傘の下で、休んでいる男三人がいた。タクシーの運転手だ。彼らは水を飲んでいた。私は"死にそうだ、水をください"と言った。快く水を飲ましてくれた。そして、彼らに言われた。"昼間であるくなよ。本当に死ぬぞ。よく生きてたなぁ〜"っと。私は何とか命をつないだ。

私はイスタンブールへ向かう日が来た。朝早く空港へ向かうバスを待っていた。なかなかこないので、同じく待っている男にいつくるのか尋ねてみた。"俺も「釣り」にいこうと思っているんだけど、なかなかこないね"、という。釣り?このバス停には海岸までいくバスは来ないはずなのだが・・・。男はさらに言う、"まだ時間が有るなら、うちで水でも飲みにこないか?"。私は、水を飲みに行くことにした。しかし、彼は"やばい"人だった。次第にマッサージしてあげるとか言い始め、男の手つきが怪しくなってきた。。男二人だけの部屋。私は、断固拒否し、急いで部屋を出て、バス停に戻った。まさか、男にナンパされるとは思わなかった。これが、彼の言う"釣り"なのか?

飛行機は混んでいたが無事乗れた。飛行機の中では、隣にいたバーレーン人の12歳くらいの女の子に、しきりに話しかけられた。家族でトルコに避暑旅行だそうだ。トルコの最高気温は40度くらい。確かに涼しい。私はこのときヒゲを伸ばしていたのであるが、パスポートの写真はひげがなかった。彼女は絶対ひげがあるほうがかっこいいという。そうこう話しているうちに、彼女は一緒に旅行しようと言い出す。今日、二回目のナンパであろうか?今日はモテる日なのか?子供と男だけど・・・。彼女はお父さんに相談したのだが、だめだといわれたらしい。当たり前だ。

東京をでて一週間。やっと目的地のイスタンブールへ着いたのだ(上の写真)。私は、久々に日本人の旅人にあった。彼にアフガニスタンのことを聞いた。すると、"パキスタンとの最近開いた国境のことだね。入国した日本人の11人中、7人が戻ってきたらしいよ"。もちろん、私はアフガニスタンに行くのをやめた。いくらなんでも、戻ってこれない確率が高すぎる。私は、イランと、パキスタンで我慢することにした。

早速、イランへ向かうため、トルコの東部にあるトラブゾンへ向かった。しかし、試練はまだまだ続く。

いきなりの、バスの故障である(上の写真)。草原のど真ん中。運転手が、車の修理を始める。我々は大丈夫であろうか。トルコ人は、ことのほか冷静であった。2時間ぐらいで、修理が完了した。

トラブゾンにある教会(上の写真)。イスラム教徒によって破壊の限りが尽くされている。マリアの絵には石が投げつけられ、ぼろぼろになっていた。なぜ人々は、このような破壊と争いをしなければならないのだろう。どの宗教にも属さない私にとって、不思議でならなかった。こんな争いはなくなってほしい。そう思った。

トラブゾンのイラン領事館でビザをとることにしていた。領事館員は、久々に訪れた旅人を至極歓迎してくれた。領事館員は、私を広い応接間に通し、お茶をだし、イランがどんな国なのかというパンフレットまでくれた。訪問者は私しかいない。いろんな大使館領事館でビザの申請をしたが、全く人が来ないこの領事館は異常に感じたし、VIP待遇を喜んだ。ビザ発給には一週間くらいかかるといわれた。とりあえず、申請して、一週間後に取りに来ると約束した。

私は、この一週間の間に別の国にいけることに気づいた。グルジアビザが簡単に取れると知ったのだ。しかも、このビザでアルメニアに三日間行くことができるらしい。そう、あの、モスクワ・サンクトペテルブルク間の夜行列車の中でアルメニア人女性に猛烈に進められたアルメニアである。エチミアジンがある、アルメニアである。まさか、こんなところで、訪問の機会が訪れるとは。行こう、アルメニアへ!!

私は、このビザに惹かれた。私は、ビザをすぐに収得した(上の写真)。それが、最大の試練の始まりだった。

グルジアへの入国時に賄賂を要求されたが、バスの中で仲良くなったおばちゃんのおかげで払わずに済んだ。そして、グルジアの首都、トビリシへ着いた。

グルジアでは、最近まで内戦が行われていた。上の写真は、トビリシ最大の観光名所、展望台である。一階部分は完全に破壊されており、誰もいない。ここへ行くためのケーブルカーも、私が係りの者を呼びにいくまで誰にもいなかった。トビリシは、まだ、観光客を拒んでいるような気持ちになった。私が泊まっていた宿も半分くらい破壊されており、最初、観光客だと信じてくれなかった。それどころか、難民と間違われ説明するのに苦労した。

そしてそこから見えるトビリシの景色である。町並みはとてもきれいであった。タクシーに乗ると普通に銃弾の後があったりと、内戦の爪あとが色濃く残っていた。そして、この国でも、ロシアと同様、警察が敵であった。私は警察に道を尋ねると、交番(?)の個室に呼ばれ、財布を強奪された。私は何とか取り返そうと、もみ合いつかみ合いになり、力でなんとか取り返した。この国も警察は敵であった。

その後、アルメニアの首都、エレワンへ向かう。

アルメニアへの入国の際、他の人はバスから降りずに済んだのであるが、私一人だけ、別室に呼ばれた。上の写真がその別室である。明らかに、軍人の部屋である。中に入ると、奥にテーブルがあり、軍人が座っている。横にはライフル銃を携えた軍人が8人くらいいただろうか。武装された軍人たち10人くらいに囲まれ、"ロシア語は話せるか?"とロシア語で聞かれたようだった。そう、彼らはアルメニア語とロシア語が話せるが英語は話せない。身振り手振りの交渉が始まる。

上の写真は交渉のときに使われたメモ帳である。英語が通じないため、身振り手振りの交渉だったため、時間がかかったが、大体以下のような内容である。

軍人"$200払え"
私"なんの金だ?"
軍人"ビザがない。ビザ代だ"
私"グルジアビザで三日間入国できると聞いたが、違うのか?"
軍人"ふざけるな、グルジアとアルメニアは別の国だ、必要に決まっているだろう"
私"分かった、払おう、しかし高すぎる。"
軍人"$100でどうだ?"
私"だめだ、$10にしてくれ。"
軍人"ビザは4日間のものしか出せない。一日$20でどうだ。"
私"$80は高すぎる。もっと安くしろ。"
軍人"一日$10でどうだ?"
私"4日で$20にしてくれ。"
軍人"しょうがない、それでまけておいてあげよう。"

そしてようやく入国スタンプが押された。もちろんビザなどくれない。この$20はただの賄賂である。私はトラブゾンのグルジア領事館でアルメニア入国に関して何度も確認したから、ここで金を払う必要がない 自信はあった。このことは後に、アルメニアの外務省の高官にも確認したので、間違いない。だが、"グルジアとアルメニアは別の国"。この言葉はグサリと来た。私はモンゴルで似ている国をひとくくりにするのは、絶対にしてはいけないと誓ったのに・・・。

私はバスにもどり、バスが動き始めた。隣に座っていた少女は心配そうに私を見ていたが、問題なかったと伝えるとホッとした様子だった。

ついに訪れた、エチミアジン(上の写真)。 あの、ロシアの列車の中でであったアルメニア人にもらったパンフレットと同じアングルで写真を撮った。エチミアジンは、ヨーロッパの教会のような派手さはなく、非常にシックな、厳かな雰囲気であった。非常に神聖な場所であると感じた。訪れてよかった。神聖な場所とは、こういうことを言うのかと、身にしみた。 また、あの時進められた場所に、あの時は絶対に行かないと思っていた場所に、来たことに、何か、不思議な感覚に襲われた。

私はこの教会の出口にあった、お土産屋でTシャツを買った(上の写真)。私は帰国後、ぼろぼろになるまで着たお気に入りのTシャツである。大天使ガブリエルが描かれている。このガブリエル、キリスト教のみならずイスラム教でも登場する。イスラム教は偶像崇拝が禁止されているので、このTシャツは許されないものである。 どちらの宗教もガブリエルが登場するという非常に似たところを持っているが、その扱い方の考え方が異なる。

上の写真は、街の中心部にある公園の噴水である。 子供たちが無邪気に噴水の中で遊んでいる。私は、この平和の光景を見ながらも、自分が危機的状況にあることに気づき始めていた。この近くには、超高級ホテルがあり、その玄関近くでは、缶ジュースを高額で売っており、くつろげるようになっていた。そこの店員二人は、エレワンでは数少ない、英語のしゃべれる人たちであった。私は彼女たちに自分の状況を、よく相談に行っていた。

私のビザは3日しか有効でない。(賄賂を受け取った軍人は4日と言っていたが)。私は金曜日に入国し、夕方にエレワンについた。もう、役所はしまっていて、ビザの延長はできない。二日目、三日目は土曜日、日曜日。役所が閉まっているため、ビザの延長はできない。

私は、日曜日までに出国しなければならない。そうしなければ、不法滞在になってしまう。すでに土曜日の夕方を迎えていた。

私は、出国の方法を探る。上の写真は、どの国境からなら出られるかを模索しているときのメモである。国際バスステーションに行けば、いつでも出国できるだろうと軽く考えていた。しかし、国外へ向かうバスは本数が少ない。しかも、トビリシ行きのバスしかない。バスの運転手に聞くと、"君のグルジアのビザはもう切れてるから、グルジアにはいけないよ"という。私はグルジアを一度出国しているので、私のグルジアビザは、"グルジアのビザとしては"もう、失効しているのだ。しかも、土日はそもそも、バスが出ていない。そう、はじめからこの解はなかった。イランはどうだ?バスは出てないが、タクシーで国境までいけることが分かった。その距離60km。しかし、この国境は開いたり閉じたりして、情勢が流動的な上、国境でビザがとれないであろうという、結論になった。しかも、私はトラブゾンでイランビザの申請中であったため、国境でビザを取れば、もめることは確実であった。アゼルバイシャンはどうか?アルメニアとアゼルバイシャンは、非常に仲が悪く、国境は完全に封鎖されているとのことだった。私は、アルメニアに接している全ての国に入国できないことが明らかになった。

モスクワに続いて、二回目の不法滞在が頭によぎる。あの時は冷静だった私も今回は冷静になれなかった。

ビザが三日しかないことも金曜日に入国すれば延長は不可能であることも、入国前からわかっていなければならなかった。しかも、出国先がないことも、あらかじめ調べていれば分かっていたことだ。アゼルバイシャンにいけないことは、この地域を旅する人なら常識であるはずだ。私はそれすらも調べずに、後先考えずにふらりと来てしまった。

"これはどう考えても俺の落ち度だ。この国には日本大使館はない。警察も、出入国管理官も、移民管理局も、敵であろう。俺には味方はいないし、同情の余地もない、どう考えても誰も助けてくれない。どうにもならない"、

そう思った。モスクワのときとは正反対であった。もう飛行機で出国するしかない。それ以外に私に道はなかった。その日はもう、航空券を扱っている代理店が閉まっていたので、次の日、ビザの期限最終日である日曜日、に訪れた。どの代理店に行っても、今日出発の便に乗るのは不可能だという。この日の飛行機はどれも満席だった。そりゃそうだ。このバカンスの時期、一番混む時期、当日に航空券など、買えるわけがない。私は愕然とした。私は日本に帰れるだろいうか・・・。

私は、高級ホテル前のジュース屋相談しに行った。彼女たちももう、無理だという結論に達しつつあった。"とりあえず、日本に電話をかけておいたらどうですか?"という。意味深だった。何故日本に帰ってこれないのか、説明しておけというのか。私は、同じ寮に住む先輩に、"もしかしたら帰れないかもしれないかもしれません"と、伝えた。私は、冗談めいていっていた。あまり心配はかけたくない・・・。そう思った。

私は、何故か、国際バスステーションを再び訪れた。だめだと分かっていても来てしまう。乗れるバスなどない。おみやげ物屋と、だべったりした。お土産屋は、ついに、"もし、不法滞在になった俺がかくまってやる。"とまで言ってくれた。うれしかったが、かくまってもらっても根本的な解決にはならない。逮捕されなくても、日本に帰れないことには同じなのであるから。

この日の夜、私は宿で泣いた。旅の中で泣くのは三度目であった。板門店、ロシアから帰国して桜を見たとき、そして、アルメニアでの不法滞在。私の不法滞在は決まった。しかも、弁解の余地は全くない。眠れなかった夜が明け、月曜日となった。

私はまた、高級ホテル前のジュース屋に行った。彼女たちは、あるアドバイスをくれた。"このホテルの隣は外務省だから、そこに行ってみたらどいだろうか?"。普通、この場合、言い訳をしにいくなら、ビザの管理をしている、出入国管理局や移民管理局である。しかし、彼女たちは、その上流に存在する外務省の人に直接、言い訳をしにいけというのだ。私は、この方法をとることにした。

受付の人に、"ビザについて質問がある"というと、"外務省アジア局長"の方が、上の階から降りてきた。おそらく、大臣の次か、次の次ぐらいに偉い人と思われる。彼は日本に何度も訪れており、日本が大好きなんだそうだ。"日本人が来てくれてうれしいから、つい、対応したくなった"、という。彼は非常にうれしそうだ。私は、事情を説明し、ビザを見せると、"確かに今日から不法滞在ということになる"という。にこやかな彼の表情が険しくなっていくのが分かった。"助けてあげたいが、、、"と、口調が重い。"移民管理局に行き、不法滞在について言うしかない"と、彼は言う。

私は彼と二人で、移民管理局に行く。大勢の人が順番待ちをしている中、彼の権限で、移民局の局長の部屋へ直接通してもらった。移民管理局長は突然の上司の訪問に驚いていたが、アジア局長は早速、私の状況について説明を始めた。私は一言もしゃべれなかった。二人はかなりの口論になっていた。移民局長は時々私をにらみつける。一人でここに来ていたら、本当に、逮捕されていたかもしれない。アジア局長が私を弁護しているようであった。私には何も分からないアルメニア語の会話が続いていたが、両者の表情で、それがなんとなく分かった。"いくら上司の申し出でも、こいつをかばうことはできない"、と移民局長はいい、アジア局長は"なんとか、助けてやってくれ"といっているようであった、そんな気がした。どれぐらい口論していたか分からない、私はただ呆然と見つめていた。

ついに結論が出たようだ。移民局長は、"まったくしょうがないな"という、表情だった。アジア局長は言う、"可能な限り早く出国するなら、特別に時間をさかのぼってビザの延長を認める、ということになった。私の目の前で出国手段を確保し、必ず、その方法で出国すると約束してくれ"。もちろん、私は約束した。アジア局長と二人で航空会社へ行く。私は飛行機は満席で予約が取れないことを知っていた。アジア局長は、時刻表を見ながら早い順に候補を挙げていく。"まずはロシア。この国に入国はできるか?"、とアジア局長。"ビザが必要であるため、入国できない"と私は答えた。ふとみると、かなり上のほうに"TOKYO”の文字があった。う、俺の旅はここで終わってしまうのか・・・。すぐには入国できない国が続く。このままでは東京になってしまいそうだ。"イスタンブールは?"、と聞かれた。俺はなんていついてるんだ。旅を続けるには最高の場所だ。しかし、案の定、予約が取れない。アジア局長が係員にボソボソと何か言った。そして、不思議なことに、予約することができた。

次の日、空港へ向かう。空港長には、アジア局長から話が回っているとのことだった。出国時に$20でビザの延長をしろとのことだった。私が空港に着き、空港長に会うと、空港長は、ビザ係りにその旨伝えて、立ち去っていった。ビザ係りは言う、"俺はビザの延長手続きなどという面倒な作業はしたくないし、お前も$20も払いたくないだろう。ここで一つ提案がある。私に$5、パスポートコントロールの彼に$5払って、ビザなしで出国しないか?"。賄賂で出国しろという。私にとっては、出費が$10で済むし、彼にとっても面倒な仕事をしなくていいうえ、$5もらえる。

迷うわけなどない。私は賄賂を払って出国した。

今思えば、はじめから知らん振りして、出国を試み、パスポートコントロールで、$10札でもはさんでパスポートを渡せば済む話だったかもしれない。日本人の感覚では絶対にありえない話だが、この国の常識はそうだったのだ。私は、旧ソビエトの常識になれる前に、最後の訪問地を後にした。

イスタンブールに着いた。このいきさつを宿の仲間たちに話すと、非難ごうごうだった。無謀であったし、あまりにも適当すぎた。そう思った。

私は日本へ帰る航空券を買っておくことにした。トラブゾンではそろそろイランビザができているはずである。私はイランに入り、また、トルコに戻って東京に戻ることにした。イスタンブールで航空券を買うのは二回目なのですぐに買えた。今度は一億トルコリラだった。

トラブゾンでビザを受け取った。相変わらず暇そうな領事館で、イランの観光案内をくれ、すこしだべった。

イランとの国境では、ガソリンを運ぶ車が長蛇の列を成していた(上の写真)。気が遠くなるぐらい長く、なかなか前に進まない。一体、この国境を越えるのに何日かかっているのだろうか?ただ、彼らがそこまでして、イランからトルコにガソリンを運ぶ気持ちはよく分かる。トルコではガソリンは50円/リットル。イランではガソリンは2円/リットルなのだから。

国境で飲み物を売っていた少年に、トルコ語が通じないことに気づいた。そう、ここは、クルド人地域だった。私はそこで、この少年に、クルド語を教えてもらった。後に分かったのだが、少年がクルド語と主張していたこの言語は、どうも、クルド語ではないらしい。いまだに、この言語が何なのかは、不明である。

トルコ・イランの国境のパスポートコントロールは凄かった。窓口は男用と女用の一つづつしかない。彼らは並ばない。無秩序にはんこを押せて、人の波が一つの窓口に押し寄せる。人を掻き分けて、はんこをもらわなければならない。30分くらいは格闘しただろうか、なんとか、はんこをもらい出国した。

イランは交通費が安い。国境付近の町へ行くために、乗り合いタクシーに乗るが、その相場を駄菓子屋で聞くと、信じられないくらい安かった。日本円で10円くらいだろうか。タクシーの運転手と交渉に入る。"500円でどうだ?と、運転手。私は"1円にしろ"と。運転手は怒った。"ここから10kmもあるんだぞ、1円でいけるわけないだろ!"。日本円で考えると、私は気の狂った値段交渉をしている。しかし、頑張って相場である 10円まで値切り、無事国境付近の町まで出られた。そして、そこから長距離バスに乗り、イスファハンへ向かう。

このバスの中で、イランでは珍しく英語がかなりしゃべれる青年に会った。彼は母親と一緒であったが、母親も私に聞きたいことがあるようであったが、直接は聞いてこない。彼にゴニョゴニョと耳元で内緒話のように質問を伝え、それを彼が母親の代わりに聞く。そして、私の答えを、彼がまた、母親に対して、ゴニョゴニョとする。イランは、厳格なイスラム教国家。今となっては、サウジアラビアとイランしかないといわれている。コーランが法律、女性は家族以外の男性と話してはならない。そう、息子を通して出しか私と会話できないのだ。私は、バーレーンやトルコでイスラム教を見てきたが、ここまで徹底されているのをみて、不思議な気分にもなったし、イスラム教の教えを深く守っている人の姿とは、こういうものなのかと思った。

また、当時、ワールドカップフランス大会の直後であったため、その話題でも盛り上がった。ワールドカップフランス大会の予選では、本選出場をかけて、死闘を繰り広げた、日本とイラン。日本は勝ち、ワールドカップへ。イランは負けたものの、次のオーストラリアに勝ち、ワールドカップへ出場していた。本選では、日本は全敗。イランは1勝2敗であった。

ワールドカップフランス大会予選リーグ結果

そんな話しで、盛り上がった。サッカーでは敵同士として戦った日本とイランであったが、私たちは、サッカーを通じて、仲良くなれた。そんな気がした。

私「日本対イランは本当に接戦でいい試合だったね。どっちが勝ってもおかしくなかった。」
彼「いや〜、あれは、イランは粘ってただけで、日本が圧倒的に押してる試合だったよ。日本のほうが強いと思うよ。」
私「でも、日本は予選リーグで一勝もできなかった。イランは一勝したから凄いよ。」
(私は、イランがどこに勝ったか知らなかった。)
彼「日本のグループは強いチームばかりだったからね。アルゼンチンはほんと、すばらしいチームだよ。」
私「イランのグループも強かったでしょ。」
(ここで彼のにこやかな表情は急変する)
彼「いや、イランのグループには、あの最低な国がいたからね。あんな、最悪なアメリカから1勝あげるなんて、当然のこと。最弱最低の国に勝った1勝だから、イランが日本より強いことにはならないよ。世界の全ての国がアメリカに勝つだろうからね。」

鳥肌がたった。うわさには聞いていたが、そんなにアメリカのことが嫌いだなんて。彼らはキリスト教が嫌いだとか、そういうことはあまりないらしい。実際彼は、アルゼンチンをほめているし、イタリア人の旅人も、宿屋の主人や近くの駄菓子屋の人と仲良くなっていた。しかし、アメリカ人を嫌う人は本当に多かった。ほとんどの人が嫌いだといっていた。私には理解できないし、非常に悲しくなった。

逆のこともある。旅先で会った旅人に、"俺はイランに行く"というと、"何であんな最低最悪の国に行きたがるんだ?"と、ほぼ必ず、アメリカ人は答える。本当に悲しい。

アメリカはイランを"悪の枢軸"といって嫌っているが、イランは、それ以上にアメリカ人を嫌っているようだ。なんとか、仲良くなってほしい、私はそう思った。日本はアメリカともイランともとても仲が良い。自分の親友二人が、お互いいがみあっているのは、心が痛いものだ。何とか仲良くなってほしい。心からそう思う。今は、あれから、月日がたっている。仲良くなっていることを願うし、仲良くなってほしいと思う。

このような、言われ無きいがみあいを、一つ一つなくしていくことが、世界が平和になる最良の方法なのではないかと、私は思うのです。

イスファハンの町並みは本当にきれいであった(上の写真二つ)。きれいなモスク。きれいな橋。橋の下でくつろぐ人々。

私はここで、ある日本人男性の旅人にである。彼は、旅人としてはまだ初心者であったが、彼の話に非常に感銘を受け、私の人生を変えたといっても過言ではない。彼は27歳。6歳年上であった。職業はシステムエンジニアと、夜はホストをしていた。莫大の収入を得るとともに、結婚相手もきまっていたそうだ。何もかもうまくいっていた。庶民が考える、全ての幸福をつかむ寸前であった。しかし、彼は、仕事を全てやめ、彼女とも別れ、旅へ出た。すべてを捨てて旅に出たのだ。

”順風満帆の人生、しかし、なにか足りなかった。私は、寄り道せず、まっすぐに来た。旅に出たことが無い。そう、旅に出たかった。”彼は、こんな風なことを言った。電波少年の猿岩石を見て、”誰だって旅に出れるんだ、特別な能力や知識は必要ない。旅に出たいという思いがあれば、誰でも旅に出れる”。と思ったそうだ。彼とは非常に話が合った。発展途上国や危険な国、人が行かない場所ばかりを行くことによって、凄いことをしていると思っている旅人が多い中、"世界を知る旅をする"、という、思いをもった旅人にお互い、出会えた気がした。多くの旅人が、イランビザがなかなかでないことに不満を言っていた。私は一歩踏み込んで、自分なりの考察をし(詳細省略)、宿屋のノートに書いておいた。こんな話も、彼は興味心身で聞いた。他の旅人とは違う。

彼と夕食に行き、話しが非常に盛り上がった。そのなかで、私は、自分の旅について考えた。私は帰国すればある意味、公務員。定年退職までレールがひかれているのであろう。私は、その公務員という枠の中で、海外を旅している。

私は世界を旅しているが、私の人生は旅をしていない。いっぽう、彼の人生は旅に出ているのだ。

そう思った。私は自分の人生を、本当に自分にあったものなのか、考えるようになった。彼は仕事はやりたかっただろうし、彼女のことは好きだっただろう。でも、旅に出た。私も公務員の仕事はすばらしいと思うし、やりたいと思っている。だけ れども、旅に出るかもしれない。そう思った。そして、後に、実際に、回り道ばかりの、だけれども実りある、人生の旅に出ることになったのです。

私は、次の日、熱が40度でて、腹痛にも襲われた。食欲が無い。

宿の仲間に聞くと、夏のイランでは半分くらいの旅人は、暑さや単調な食事によって、腹を壊すらしい。私は、40度を越す暑さであるイランを暑いとは全く感じていなった。むしろ涼しいぐらいにしか思っていなかった。そう、バーレーンの最低気温ぐらいなのであるから、それに慣らされていたのだ。

宿仲間にとって、私のような重症も珍しくはないようで、仲間たちは、みんな冷静だった。"2、3日、何も食わなければ直りますよ。"と。私はそれを実践することにした。食欲がなくなっていた私には、それは、簡単なことであった。ひたすら食わず、ひたすら寝る。ときどき、宿の人や、宿仲間が、果物を差し入れしてくれて、それだけは少量、食べた。古本屋で買ったコーラン(イスラム教の経典)を枕元において寝た日があった。おきると熱が下がった。一瞬、アラーのおかげか?と思い、イスラム教徒になろうと思ったが、トンカツが食えなくなることを思い出して、一瞬の気の迷いは消えた。

3日ぐらい、食わず飲まずの生活だったが、なんとか良くなった。体重は47kg、ウエストは60cmまで下がっていた。

直ったものの相変わらず食欲のなかった私は、宿仲間の日本人女性に、"プリンを食べに行きたい"といわれる。当時のイランでは、女性一人が出歩くのは、ほぼ不可能。私もプリンなら食べられると思い、お供することに。レストランへ向かう、バスにのる。男性は前の車両、女性は後ろの車両に乗らなければならない。別々に乗る。しかし、私はそのレストランがどこにあるのか知らない。彼女は目的のバス停で降りたあと、手を振るから、そこで降りてくれという。私はそとをずっと凝視していた。彼女が降りていて、手を振っている。私はあわてて降りた。

なんて、めんどくさいんだ。不便極まりない。ただ、利点もあるように思えた。少なくとも異性に対する痴漢は絶対におきない。日本の鉄道も、時々女性専用車両がある。それを極端にしたものだと思っていただければいいと思う。

プリンを食べた帰り、街中でアイスクリームを食べた。彼女は"プリンごときに付き合ってもらったので、ここは私がおごります"というと、私は、"いえいえ、私もちょうプリンを食べたかったんです。割り勘にしましょう。"といい、割り勘にすることにした。この様子を見ていた、イラン人の店員は、非常に不思議そうに見ていた。彼は、最初からお金の要求は私にしかしなかったし、彼女が財布を取り出して驚いていたし、割り勘にはさらに驚いていたようだ。そして、我々が家族ではなく他人であることを知れば、さらに驚くに違いない。

文化が違いすぎる。

彼には我々の行動が謎めいていただろう。しかし、我々はイラン人の行動はある程度理解できるようにはなっていた。女性は一人で出歩かない。モスクもバスも、ビザの申請窓口も、全て男女別。ある程度理解できるようになっていたのは、イランを旅したからであって、日本から出たこと無い人であれば、絶対に理解できないであろう。 百聞は一見にしかずである。

上の写真は、最後の観光をした場所である。ここを最後に実質、私の旅は終わる。

イスタンブールに戻り、イスタンブールの空港から、これから帰国する旨、寮の先輩に伝えた。電話が終わった後、順番待ちで並んでいた日本人のおばちゃんに声をかけられる。”どうやって電話をかけたんですか?”と。私にとっては簡単なことであったが、おばちゃんにとっては難しいことなのであろう。私は、やり方を一通り教えた。おばちゃんは孫の声が聞けたと感動し、私に非常に感謝していた。私も、かつては、国際電話というだけで感動したものだ。しかし、今はそれは日常であって、何の感動も無い。私は、いろんな文化を見てきた。これから先、私は、新しい文化をみることによって、このおばちゃんぐらい感動できるであろうか。私はもう、新しい文化を見ても、今まで見てきた文化を、頭の中で足したり引いたりして、それを想像でき、あまり驚かないのではないだろうか。私には、世界が、理解は浅いが、だいたい見えてきた。一週まわって日本に戻ってくる様子が、うっすらと想像できた。

私には、地球が丸く見えてきた。

そう思うと、世界を旅することによって、旅人を始めたころの感動は得られないと思った。それよりも、私は、人生の旅に出よう。そう思い始めた。人生のなかで何かにチャレンジしたいと、思うようになった。それは、何だか分からない、分からないが。

いろんなことを学びたい。いろんなことを体験したい。いろんなことを自らの力で切り開いていきたい。

そう思った。私の世界の旅は、ここまでにし、次は人生の旅にでる。遠回りでもかまわない。築きあげてきたものを、無駄にしてもかまわない。人生の旅にでよう!

そして、私は世界の旅人を引退することとなった。