96年夏 : ミャンマー 〜 初めての一人旅 〜
こともあろうに、初めての一人旅はミャンマーであった。大学一年生、受験も終わったし海外旅行でも行くか〜、って気楽に考えていた。"シンガポールとかどうですかね"と、ピラミッドにも登ったという旅の達人である大学の先輩に相談したところ、”初心者ならミャンマーがいいよ”と。それを真に受けて、ミャンマーへ。経由地タイで一泊してミャンマーの首都ヤンゴン(ラングーン)の空港に着いた。そこで待ち受けていたのは、強制両替。ライフル銃を携えた軍人3人に止められ、$300を外国人専用通貨"FEC"($1=1FEC)に両替しろという。私は一週間程度の滞在であったが、一週間で$300使うのはほぼ不可能だということはあらかじめ分かっていたので、値切り交渉をすることにした。しかし、いかせん、軍人が相手であることにビビッてしまい、3万円(当時約$280)の両替で妥協した。ここで、他の日本人の旅人に声をかけられ、町に出るまでのタクシーをシェアすることに。初めての一人旅、しかも、海外、しかも、軍事政権国家ミャンマー。ここで行動を共にする"仲間"ができたことがどれだけ不安を解消してくれたことか・・・。無事、町にでて、仲間のお勧めの宿屋に。そこは、いわいる安宿で、貧乏旅行をしている人たちのたまり場であった。ここは、旅の達人たちが多く集まり、非常に勉強になったし、有用な情報が得られる上、行動をともにできる仲間も見つけることができた。私はこのとき、安宿にとまり、情報をあつめ仲間を見つけることが、危険と不安が多い一人旅では、非常に大事であることが分かった。仲間と安宿の現地人通貨"チャット"に両替しにでかける。この国では銀行では誰も両替しない。宿屋で聞いた優良な闇両替所へ行った。普通の海外旅行では体験しないような経験が目白押しであった。そして、あまりの心細さに、仲間について回る日々。 まだ、一人では何もできなかった。
上の写真は、ヤンゴンの寺でとった写真。19歳の私は、ミャンマーの民族衣装である巻きスカート、"ロンジー"を巻き、裸足である。ミャンマーの人はほぼ全員ロンジーを巻いている。(この写真に写っている現地人はたまたまはいてない人が多い)。くつは通常はいているのであるが、寺の中は神聖な場所なので、脱がなければならない。ミャンマーは敬虔な仏教の国で、みな、真剣に祈っている。私はこれをみて、日本が仏教の国であると、口が裂けても言えなくなった。本当の仏教徒、本当に仏に祈るというのはこういうことなのかと、実感した。"南無阿弥陀仏"くらいしか言えない多くの日本人は、どう考えても仏教徒ではない。
宿屋の仲間たちは、明らかに迷惑ばかりかけている私に対しても非常に親切であった。本当に感謝している。私も上級者になったらこうなりたいと心から思った。その仲間たちは、"アウンサン・スーチーの演説に行こう"と誘ってくれた。アウンサン・スーチーさんとは、軍事政権を批判し真の民主主義を訴える活動家で、ノーベル平和賞もとった。父は英雄アウンサン将軍。スーチーさんは 当時、軍事政権によって自宅軟禁されていた。自宅から出れない彼女は、自宅の正門から毎週、国民に向けて演説を行っていた。上の写真がアウンサン・スーチーさんの自宅前演説の写真である。スーチーさんの演説の雰囲気は、なんといううんだろう、アイドルのコンサートに近いかもしれない。親衛隊がいる。応援の掛け声がある。写真タイムがある。ビルマ語の演説で内容はさっぱり分からなかったが、最後に英語で要約を言ってくれて少し内容が分かった。しっかりとした話をしていたようだ。
演説の帰りに仲間に聞いた話であるが、この英語の要約がなかった日があったらしく、そのときの日本人聴衆が、"英語の要約をしてくれ"と頼んだところ、"では、部屋でお話しましょう"とスーチーさんの部屋に招かれた人がいたらしい。そのとき、スーチーさんは"日本は私のことをどう思っているのでしょうか?"と聞かれ、"俺の言葉は日本を代表することになってしまう"と思い超ビビリながら、無難な答えを返したらしい。後に本格的に旅を始めたころ、この話を思い出し、以下のようなことを考えたものだ。これほど重大な場面に出くわさないにしても、私が会う多くの現地の人々は、私以外の日本人は知らないだろう。その人たちから見れば、私は日本を代表していることになるし、日本を代表して日本の文化、思想、意見を述べなければならない。一人の旅人とはいえ、小さな日本代表としての自覚を持つことが、旅人には必要であると。
この後、夜行列車でマンダレーという町に行くが、帰りの飛行機が数日後のヤンゴン発でありあまり長く居れなかった。このヤンゴンへ帰るとき、パーティーを組まず、初めて単独行動を行う。 不安であったが、いざやってみると、難しくなかった。そう、すでに旅慣れてきていたのだ。早くヤンゴンに戻らなければならないので、国内線の飛行機を使う。ここで$120つかい、夕食が100チャット(=80円くらい)しかしないミャンマーの物価を考えると、天文学的高額であった$280を使いきれる見込みが出てきた。ミャンマーの物価は非常に安いので最初は何でも安いと感じていたが、次第にチャットを円換算しなくなり、ミャンマーの物価感覚になじんだ。私はヤンゴンにもどったとき、日本人にあった。彼を仲間にし、レストランに行ったとき、コーラを頼んだ。店員は"セブンティーンチャット"といった。コーラは17チャットで15円くらいである。私は20チャット札を出したが、仲間は"セブンティの間違いだろいくらなんでも安すぎ ますよ"という。私は、"70チャット(60円くらい)なんてありえないですよ。高すぎます。"といった。でも、20チャットにたいして、店員がおつりを持ってくると、仲間は私にこういう。"かなり旅慣れてますね。物価感覚を完全につかんでる"。そう、わたしは、この一週間、ミャンマーの地で、旅人 としての大事な能力を知らず知らずのうちに身に着けていたのだ。一気に上級者の仲間入りしていたのである。私は旅人に必要な能力はいくつかあると考えているが、それは、また、後の章で述べることにしましょう。そして、私は、経由地のタイで2日ぐらい滞在し、無事日本へ帰国した。
私は帰国後、ミャンマーを勧めてくれた先輩に話をしに行った。"今度はもうちょっと普通のところに行きたいです。"と、私がいうと先輩は、"そんなに苦労した?英語も通じるし治安もいいし、今年(1996年)は観光年で観光に力いれてるし、旅しやすいと思ったんだけどなぁ〜。"と。私はこの意味がこのときは さっぱり分からなかった。今にして思えば、そのとおりで、はじめにおこなった特殊な両替を除けば、非常に旅しやすい、いい国であった。
そう、私はまだ、旅の本当の苦労と、本当の楽しさをまだ知らなかった。