97年夏 : 大旅 2 - モスクワ から イスタンブール へ  〜 楽しい日々〜

私はモスクワへ帰る方法を見つけた。通常、ロシアは、ツアー旅行かバウチャー旅行(詳細は省きます)しか許されていない。片道航空券だけを持っている私がこの航空券を使ってロシアに入国する方法など内容に思えた。しかし、裏技があった。サンクトペテルブルクのユースホステルが、宿泊予約客に対して架空のツアー書類を作ってくれるというものだった。この方法は、この時期のみ行われていたらしく、しばらくしてできなくなったようだ。私はこのユースホステルとファックスとメールでやり取りを行い、宿泊予約とツアーの日程表を手に入れた。このツアーの日程表、かなり正直に書いてあって、"サンクトペテルブルクを観光後、未定の方法で出国"みたいなことが書かれていたようだ(ロシア語なのでよく分からなかった)。 さっそく、東京にあるロシア大使館に行き、ビザの申請を行った。係員は少し日本語が話せたので、日本語でやり取りした。"書類が明らかに怪しい"という返答でビザが出なかった。ロシアへ帰るのは絶望的になった。しかし、私はあきらめなった。今度はロシア語で申請してみよう。二回目の申請は、書類は全く同じ。ただ、なるべくロシア語を使って申請することにした。係員はおばちゃんだった。

私の第一声は"ジェブシカ"。彼女は無言のまま、ビザを作り始めた。まさかとは思ったが、何も聞かれずにビザが完成した。上の写真がそのビザである。私の今回の主な旅先はヨーロッパに決まった。

モスクワについた。あの豪雪だったモスクワはすっかり夏になっていた。私は、すぐにサンクトペテルブルク行きの夜行列車に乗る。この列車で、アルメニア人女性と同じコンパートメントになった。暇な夜行列車の中。我々はいろいろな話をした。私は、正直言って、アルメニアという国がどんな国かはおろか、場所もぜんぜんわかっていなかった。彼女は非常に自分の国が好きらしく、是非、アルメニアにも訪れてくれという。アルメニアの一番の見所は"エチミアジン"だという。私はエチミアジンのパンフレットをいただいた。エチミアジンはアルメニア教の総本山である教会である。その教会は派手さはないが、妙な渋さがあった。私は、"是非行くよ"と社交儀礼を行った。そう、まさか、このエチミアジンに、一年後、行くことになるとは思ってもいなかった。それにしても、この女性は美人だった。

サンクトペテルブルクを観光した。上の写真はエルミタージュ美術館の後ろ姿である。これ以上、きれいな外観を持つ美術館を私は知らない。 私が知る中で最高の美術館だった。エルミタージュ美術館の公式ページで一部、外観、内部、展示品がバーチャルに見ることができます。見てみてください。

エルミタージュ美術館公式ページ

サンクトペテルブルクの観光の後、やはり夜行列車でバルト三国の一つであるエストニアに行くことにした。どの列車がエストニア行きなのか分からなかったので、駅員に聞くことにした。その駅員は明らかにロシア人っぽくなく、ヨーロッパ人と いう感じだった。ロシア語で話しかけると、"英語で大丈夫だよ〜"と笑いながら返答した。久々に流暢に英語がしゃべれる現地の人にあった。"大旅"の中では韓国以来の英語の堪能さだった。"エストニアにいく列車はこれだよ。"と。私は聞いた、"エストニア人ですか?"。そうだと答えた。この人たちは、ロシア人とはぜんぜん違う。ここに大きな、文化と民族の境界が存在することに気づいた。

上の写真はエストニアの街中の風景である。どう見てもヨーロッパの町並みと変わらない。もう、ここはヨーロッパであって、旧ソビエトの面影など全くなかった。私は、レストランで近くのテーブルにいた現地の人にエストニア語を数単語教えてもらった。夜行列車で仲間にした日本人に"すごいですね。"といわれた。旅人として、かなりの上級者になっていた。そして、この後、私は、自分より凄いと思う旅人に、ほとんど会わなくなってしまった。私が経験してきたものはきわめて密度が濃く、大変なものだったようだ。そして、このエストニアで、日本人旅行者にあう。その女子大生は、小さなこじゃれた手さげだけを持っていた彼女は、"ヘルシンキから日帰りで来たんですよ。"という。なんだ、この気楽さは。私が経験してきた"旅"とは大きな隔たりがあった。そう、私はこのエストニアから先、普通、日本人が想像する"海外旅行"をしばらくすることになる。

その後、フィンランドに行くが、あまりにもすることがなかった。ムーミン谷とされる場所に郵便局があり、住所を教えればムーミンから手紙が来るというよく分からないサービスがあった。しかも、日本語対応である。ためしに、同級生の住所を書いてみた。"なんか知らないけどムーミンから手紙が来た"と、彼は非常に気味悪がっていた。

上の写真はデンマークの女王の家である。普通の場所に普通に立っている。番兵がいなければ、ここが女王の家だと、気づかなかっただろう。

ベルリンに着いた。上の写真は、ベルリンの壁があった場所で、有名な検問所である。私はうっかりバスで寝ていたのだが、気づいたらこの門を通り過ぎていた。そう、いともあっさりと。かつて民族を分断し、何人ものドイツ人が、自由を求めて、決死の覚悟で越えた検問所。そう、あの板門店に 、にている場所"だった"はずだ。今は、バスのなかで居眠りしている間にとおってしまう。もう、あのころをテレビでしか知らない私には、あのころを想像するのは不可能であった。板門店も一日も早くこうなってほしい。心からそう思った。

ベルリンの壁は、みな、喜んで破壊した。そのかけらを持っている人は結構多く、道端で売っている人もいた。偽者かもしれないけど・・・。その壁の中で特にインパクトのあるものが博物館に保管されていた。それが上の写真である。だれかが、壁に描いたものであるが、あの悲劇をよく表現していると思う。

私は、チェコのビザが簡単に取れることをしり、行ってみることにした。チェコのことは全く調べてなかったし、ガイドブックも持っていなかった。でも、何とかなるだろうと思い、特段ガイドブックも調達せず、チェコへ行った。そのときの申請書が上の写真である。かなり適当に記入されている。

宿は仲間にした日本人と同じ宿に泊まり、何とかなった。チェコでは、観光客らしき集団について行ったりと、いろんな方法をとって、観光地を嗅ぎつけた。上の写真は、おそらくチェコでもっとも有名な教会であると思われるが、名前等は不明である。情報ゼロでのはじめてのトライであったが、なんの問題もなかった。

上の写真は、ドイツ、ロマンティック街道の最南端、ノイシュバンシュタイン城である。白雪姫に出てくる城のモデルになったものである。

スイスは山登りをするのが定番らしい。列車で上れる山があるというのでそこだけ行った。上の写真は列車でいけるもっとも高い場所であるが、4000m以上の高さであった。

上の写真は、ミロのビーナスの後姿である。パリは本当に楽しかった。私の旅の中でもっとも楽しかったのがパリだ。いくらいても飽きない。石畳の道。きれいな町並み。最高だった。私みたいな素人でも知っている芸術品がごろごろある。とても見きれない。 最高の観光都市だと断言できる。

マルセイユで地中海バカンスでもして帰国しようと思っていた。しかし、列車に乗り間違えてイタリアのベネティアに来た。私が軟派な旅をすることを妨げる力が働いたらしい。上の写真はベネティアの水路である。ベネティアは自動車が一台も走ってなく、移動手段は張り巡らされた水路を船であった。風情があって、いい町並みだった。ベネティアも大好きな街になった。

その後、ローマにくる。上の写真はバチカン市国にある、サンピエトロ寺院(左)とローマ法王が住んでいるアパート(右)である。このアパートの一室にローマ法王が住んでいるらしく、その部屋の窓から演説するの出そうだ。デンマーク女王よりも、質素な生活なのであろう。このサンピエトロ寺院の奥にある、バチカン美術館は本当にすばらしかった。ここの礼拝堂は、私がみた中では世界最高の芸術品だ。このバチカン美術館は入館の長蛇の列ができており、その列はバチカン市国の国外にまで続いていた(笑)。 ちなみにバチカン市国に関しては以下のページが詳しいです。

バチカン市国の紹介

バチカン市国公式ページ

ローマといえば、これは、お決まりでしょうか?(上の写真)。

そこからギリシャに船で渡ったのであるが、その船では"最も安い券にしてくれ"と頼んだため、私の席は"デッキ"だった。上の写真はそのデッキ付近であり、怪しげな危険そうなマークが写っている。この船、ギリシャまで 一晩かかるというのに、私はデッキで寝る羽目となりかけた。ただ、イス席がすいていたので、こっそりイスで寝ることにした。

ギリシャに着いた。上の写真はパンテオン神殿である。アテネは意外に観光資源が少なかったように思えた。私にはタイムリミットがちかづいていた。残りの時間をクレタ島でバカンスを楽しむか、イスタンブールに行くか、迷ったが、イスタンブールのほうが帰国の航空券を安く買えることに気づき、イスタンブールへ向かった。

ここ以降、写真はない。理由は後述します。イスタンブールでも楽しい観光をした。私は完全にこの楽しい観光旅行を満喫していた。しかし、イスタンブールまでくると、トルコの南や東にあるミーハーではない場所からきた旅人たちが増えてきた。私はエストニアからずっと楽しい旅行をしてきたが、この旅人たちと話しているうちに、もとの旅人魂がよみがえってきた。トルコの東はイラン、パキスタン、中国と続き、上海から日本へ帰れるかもしれず、非常に魅力的なルートであった。南にいけば、 レバノン、シリア、イスラエル、エジプトと、これまた魅力的であった。サンクトペテルブルクとエストニアの間に大きな境界があったように、このイスタンブールの海峡はヨーロッパとアジアを分ける大きな境界であった。この境界を越えて、向こうにある世界は私にとって完全に 未知の世界。東ルート、南ルート、どちらをとっても、非常に魅力的だった。"次の旅行はまたイスタンブールから再開しよう!"そう決心した。そして、私はこのイスタンブールで、ロシアのときはしぶしぶ買った"往復"航空券を、自ら買い求めた。

8月も下旬、なかなか予約がとれず苦労したが、何とか取れた航空券。この航空券が私の人生を変えたといっても大げさではない、そして、私にこれでもかと試練を与え続けた航空券。その航空券を私はトルコのお金 、トルコリラで手に入れた。その金額、約2億トルコリラ。日本円では13万円ぐらいだったのだが、クレジットカードの明細書に桁数が入りきれず、あとでお詫びの手紙が来たという、代物であった。この航空券、異常に分厚かった。経由地は、イスタンブール-->バーレーン-->バンコク-->香港-->東京、という感じだった。そのうち、香港でストップオーバーできると聞いて、非常に喜んだ。あの香港にまたいける。とてもわくわくした。香港とはなにか縁がある、そう思った。バーレーンがどこにあるかなど、あまり関心がなかったが、一応、聞いてみた。その小さな島国は、サウジアラビアのすぐ東側に浮かんでいた。東京に行くときはただの経由地のバーレーンが、帰りにはあんな苦戦する場所になるとは、このとき思ってもいなかった。

この航空券は私に早速、小さい試練を与えた。チェックインカウンターで、並んでいても、一向に順番が回ってこない。出発の時間が近づいていて、焦ってきだした。なにかトラブルでもあったのだろうか。そのうち、列のかなり後方にいた私が呼ばれ、チェックインをすることになった。このとき、すでに出発15分前であった。なぜ、チェックインカウンターで、待たされていたのかというと、おそらく、男性と女性を隣同士にしないように席を配置しようとしていたのだが、その解が見つからないということらしい。さすがイスラムの国。係員は"とにかく走って乗ってくれ"という。私は出国手続きも、セキュリテキーチェックも受けていない。15分は短すぎる。私はここで珍しく荷物を預けた。"これは必ず香港に届けるから"、そう係員が言った。私はひたすら走った。出国審査はかなり並んでいたが、事情を話して割り込ませてもらった。そして、出国審査官は"こんにちは"と日本語で挨拶してきた。うー焦ってるのに〜。全速力で走った甲斐あって、私は何とかギリギリ飛行機に乗ることができた。飛行機に乗っ た瞬間、飛行機のドアが閉まり飛行機が動き出した。私を待っていたらしい。"席は決まっていないのでとりあえずここに座ってください"。スチュワーデスにそう言われて座った席は、ファーストクラスだった。なんだこの席の広さは。ぜぇぜぇ言っている小汚い私を、隣の石油王っぽいアラビア人は、不審な目で見ていた。ぜぇぜぇ言っているとスチュワーデスが数人集まってきて、"何か飲みますか"と。しかし、ファーストクラスのスチュワーデスは客より多いんじゃないか?私は"水をください"というと、ほのかに炭酸が入った水がおしゃれなワイングラスに注がれ、レモンがささっていた。いや、普通の水でよかったんだけど・・・。離陸後、私の席が決まったらしくエコノミーに連れて行かれた。となりのアラブ人は"だろうね"という表情だった。

私は、東京へ"出発"した。しばしの東京への旅。また、イスタンブールに帰ってこよう。バーレーンでは、空港から出ることができなかったので、非常に暇だったので、バーレーンのお金である、バーレーンディナールを両替した。また、ここはアラビア語らしく、挨拶を教えてもらったりした。私は空港でジュースを買ったのだが、この空港、経由地として使う人がほとんどらしく、私が バーレーンディナールで支払うと、店員が大変驚いていた。しかも、私が"シュクラン"と、アラビア語でお礼を言うと、感激していた。私もなにかうれしくなった。 バーレーンディナールは記念に持って帰ったが、再び実際に使うことになるとは思ってもいなかった。

その後、香港のあの恐ろしいカイタック空港についた私であったが、 イスタンブールで預けた荷物が出てこなかった。もし見つかったら成田に送ってくれと伝えたのだが、香港での滞在は一泊とはいえ、荷物なしですごさなければいけなかった。私は香港で、ニンテンド64の全ソフトを手に入れて、日本へ帰国した。成田でも荷物は出てこなかった。

数日後に私はカイタック空港へ電話をかけた。"荷物はすでに成田に送りました"とのことだった。私は成田に荷物を取りにいった。税関でかなり細かく調べられたが、明らかに荷物の中身は荒らされていた。そして、カメラと世界地図が抜き取られていた。私の予想では香港の税関で、盗まれたのであろう。警察は敵だ。それは香港でもそうだったのかもしれない。その他のフィルムが残っていたのは不幸中の幸いであるが、カメラの中にあった最期のフィルムを失うことになった。そう、ギリシャの途中からトルコの写真、全てを失った。

この旅は本当に"楽しかった"。海外旅行する人は大きく二種類に分けられる。一つは、英語の通じる安全な先進国にしか行かない、"普通の旅行者"である。もう一つが、ひたすら発展途上国や物価の安い国を周り 安く旅行する、"普通の旅人"である。私はどちらのタイプにもなりたくなかった。どちらのタイプも自ら視野を狭めていると思うのだ。私は、先進国だろうが発展途上国だろうが、英語が通じようが通じまいが、とにかく、いろんな地域や文化、暮らしぶりを見たかった。今回のような楽しい旅行も、苦労した共産圏の旅も、私にとって貴重な経験。視野を狭めている旅人が多いのは残念だと思う。"百聞は一見にしかず"という。世界を知るには、唯一、いろんな文化を訪問するしかない。その訪問先に偏りがあれば、その人の"世界観"は偏ったものになる。私は海外旅行に行く人皆に言いたい。ろくに調べる前に、"そこには行きたくない"といってほしくない。"普通の旅行者"は、"危なそう国はやだ"と、ろくに調べずに拒否する。"普通の旅人"は"そんな普通の国にはいきたくない"と、ろくに調べずに拒否する。それでは、拒否された国にあまりにも失礼ではないか。そんな理由で訪問をやめないでほしい。"行きたい場所はいっぱいあるけど、時間の関係でここにしかいけなかった・・・"、世界の旅行者たちが皆、このように言えるようになった時、ほかの文化の人々への偏見は減り、もっとみんな仲良くなれると思います。

そして、"香港、バーレーン経由イスタンブール行き"の分厚い航空券が約一年間の眠りについた。