96・97年末年始 : 香港、広州  〜 観光から旅へ 〜

ただの買い物のつもりであった。このときまだ、"海外は一回ぐらい行っておこうかな"程度の考えしかなく、"旅"が趣味になるとは思ってなかった。ミャンマーだけで十分満足していた。でも、私は香港に買い物へ行った。 私はゲーマーである。当時、ゲーマーのあいだで闇の情報として、「香港では、全世界のスーパーファミコンのソフトが1万円弱で不法に入手できる」というものだった。今でこそインターネットで簡単なことも、当時は非常に困難であ り、こういうものを買いに行くのは、普通の行為であった。ミャンマーで海外渡航に抵抗を感じなくなっていた私は、香港に買い物に行くことにした。出発のとき、私はこの旅で、旅人として目覚めることになるとは、思っていもいなかった。

上の写真はテロではない。 当時の香港はまだ、あの恐ろしいカイタック(啓徳)空港を使用していた。2、3分に一回は起こる飛行機の着陸である。こんな街中で飛行機が飛んでいた、ビルよりも低く。街中を歩いていると時々轟音が響き、暗くなる。空を見上げると一面、飛行機の下の部分しか見えない。そして、着陸用の車輪の数は、はっきりと数えられ、タイヤの汚れまではっきりと見えた。私が見てきた恐ろしい空港は、恐ろしかった順に、カイタック、伊丹、福岡だ。 そう、カイタック空港がなくなった今、日本には世界屈指の恐ろしい空港が二つもあるのだ。

カイタック空港の凄まじさは、飛行機写真の達人たちのページを見たほうが分かりやすいと思うので、参考までにどうぞ。
まつしのさんのページ
サムティン(森田)先生のページ

上の写真は香港島の山から見た、香港の夜景である。100万ドルの夜景といわれた夜景である。でも、飛行機から見た夜景のほうが断然きれいたっだ。私は、昼は買い物に徹していた。お目当てのものは探すのに苦労したが、聞き込みの成果あって、3日目に全スーファミソフトCD版4枚と、そのCDをスーファミで再生するための機械をこっそり売っている小さなおもちゃ屋を発見した。こんなものは、あの世界の秋葉原でも当時、おいてなかった画期的商品であった。この店はその後、行けば店員のお姉さんに”久しぶり”と声をかけられるほどになってしまうことを、私はまだ知らない。目的を達成した私であったが、帰るまでにはまだ10日ぐらいあった。香港は、空港と夜景、買い物ぐらいしか観光資源がないので、退屈になっていた。暇になったら広州に行こうとあらかじめ決めていたので、広州に行くことにした。

上の写真は、広州で一番大きい食品売り場である。近年、SARSで有名になった、あの、食品売り場である。このとき仲間にしていたアメリカ人は、"ペットショップにしか見えない"としきりに言っていた。築地にある刺身屋がうまくいように、この食品売り場の定食屋もうまくて安かった。ほんと、滅茶苦茶うまかった。食は広州にあり。この言葉を実感した。このとき広東料理は、私的世界三大料理の一つとなる。私が食べたのは、なんの動物の肉かは不明のままであったが・・・。

広州では観光をしていると広州駅前で、集会が開かれていた(上の写真)。人民解放軍につれられて現れた二人は手錠がかかっている。何の集会かは分からない。上の横断幕に書いてある”宣判処理大会”の文字が気になる・・・。広州駅はなぞが多い。広州駅には浮浪者なのかなんなんだろうか、構内いっぱいに人が地べたに座っていた。このおびただしい人たちが一夜にして消えた日、"清掃日"があったと日本人の旅人から聞いたことがある。中国の人権に対する考え方は、我々とは全く違う。これぐらいしないと、人口の多すぎる国家を保てないということなのだろうか・・・。

私は日本人の仲間とジャオチンという田舎町に行く。

ジャオチンは恐ろしく田舎である。ホテルらしいホテルは町に一つしかない。町で我々がしゃべっている言葉が広東語でないと分かると、人々は広東語でしきりに話しかけてくる。"上海?"。ほぼ間違いなくみな聞く。彼らにとって外国人が自分の町に来るなんて想像できないのだろう。我々が日本人だと説明するのは一苦労である。英語は通じない。国語(普通の中国語)も通じない。みな、広東語しかしゃべれない。上の写真は、筆談の跡である。私はこれまで、現地の人とは少し距離をおいていたかもしれない。しかし、このジャオチンで初めて、現地の人と"語り合"った。漢字での筆談は中国人と日本人の間でしか成立しないが、私は、言葉は通じなくても、身振り手振りや絵を書いたりすればかなりのことが語り合えることに気づいたのだ。ジャオチンには字が読めない人もいたが、彼らとも絵を描いたりして会話したり、字が読める人に"通訳"してもらったりした。人間同士、言葉が違えども、文化が違えども、人間同士。お互いの知恵を出し合い、語り合えば、必ず分かり合える。そう、実感した。俄然、地元の人たちとの会話、語り合いが楽しくなった。そして、私は英語に頼らなくなった。世界には英語がしゃべれる人は10億人いる。英語にたよっていれば、10億人としかしゃべれず、40億人以上とは語り合えない。私は、世界のすべての人間と、なんとか語り合う方法を見つけたのだ。

いろんな文化をみたい。いろんな人と語りあいたい。そして、世界を知りたい。そして、日本を知ってもらいたい。テレビや新聞じゃあ、世界は全く分からない。そう思った。また、私は今まで非常に狭い世界にいたことに気づいた。"旅にでたい!!"。私は旅人となる決心をしたのである。

旅人となった私は、現地の人から一緒に写真をとろうと、言われることが多くなった。ここでは、数少ない若い女の子と撮った写真をおいておきます(笑)。

ジャオチンから香港に戻った私は、例のおもちゃ屋で最初の目的物であったスーファミソフト一式を買って、帰国した。帰国後、大学の同級生たちとは、ゲームの話で盛り上がり、旅の話はそんなにしなかった。しかし、私の中では、心に刻まれたものは大きく、買い物は小さなものであった。確実に旅人として、世界を歩み始めたていた。

香港と広州。私はこの地にまた来ることになる。確実に縁のある街、ない街というものはある。縁のある街は、なぜか何回もいってしまう。縁のない街は、なかなかいけないし、行っても、二度と行かない。私はこんな街との不思議な縁を感じる。香港にはなにか縁がある。私は、海外ではほぼ間違いなく香港人と間違われるほど香港人顔らしい。それも縁だろうか。私が不思議な縁を感じている街は、香港、イスタンブール、 京都、そして、下関。なぜか行ってしまうこの街々は、京都以外は、いずれも海峡の街。"なるほど、海峡つながりか?"、でも京都は水とは縁もゆかりもないなと思っていたところ、最近、縁のある街リストに北京が加わった。二度と行くことはないと思っていた北京は やはり海峡どころか水と全く縁のない街。

"海峡"と"古都"が私と縁のある街であろうか・・・。